発売直後に読んで感激して、ちょっと時間をあけて先日再読した。そうしていまこの記事を書くにあたり線を引いた箇所を読み返して、ううむなんて深いんだと改めて感じ入ってゐる。抽象的なことばで考える哲学の世界と、ふつうに日々を生きる世俗の世界との関係が、ぼくのような素人にもきちんと分かるように書かれてゐる。
すごく真面目で志が高い本なのに読んでゐるときに感じるのは楽しい気持ち。「差異」とか「他者」とか「倫理」といったカタイことばがバンバン出てくるけれどキャッチーでポップな印象。楽しい気分のうちに、善く生きたいとか大人になりたいという欲望が盛り上がってくる。人生について真剣に考えることは、楽しい。
たとえば次の箇所など、「他者性への配慮」なんてむづかしい表現が出てくるけれど、どこの誰が読んでも、自分の生活のもっとも俗っぽい断片にさへそのまま当てはまるのではないか。そして「他者性への配慮」ということばを知ることによって、自分の生活をより深く捉えられるようになるのではないか。
確かに人は、物事を先に進めるために、他の可能性を切り捨ててひとつのことを選び取らなければなりません。しかしそのとき、何かを切り捨ててしまった、考慮から排除してしまったということへの忸怩たる思いが残るはずです。そしてまた、そのとき、そのとき切り捨てたものを別の機会に回復しようとしたりすることもある。
ここでまた仮固定と差異の話を思い出していただきたいのですが、すべての決断はそれでもうなんの未練もなく完了だということではなく、つねに未練を伴っているのであって、そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。我々は決断を繰り返しながら、未練の泡立ちに別の機会にどう応えるかということを考え続ける必要があるのです。 52頁
この本は繰り返し世俗的なものの深さについて語ってゐる。世俗的なものが深い、というのはこの本のことばの選択に見事なかたちで実践されてゐて、例えば上の引用にある「泡立ち」なんていう表現は生活のなかのたいへん俗なことばだけれど、それが抽象的な思考に直結してゐる。「未練の泡立ち」なんて詩の表現ですよね。
やまとことばは現実に密着しすぎてゐるため抽象思考に適さないとはよくいわれることだ。しかし千葉さんの文章における「泳がせておく」「遊び」「気遣い」というような語彙はみんな詩的な抽象度をもつことばとして機能してゐると思う。俗っぽいことばなのに俗臭がなく、深い。
漢語にしても「注意」とか「仮固定」みたいなとても軽い感じのことばが、世俗性と抽象性とを高度にたもったかたちで置かれてゐる。簡単なことばで難解なことを表現するということでいえば村上春樹の文章に似たところがあるかも。
どちらも好きだけれど千葉さんのほうが明るいな。晴れた空みたいに。
身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。
世界は謎の塊りではない。散在する問題の場である。
底なし沼のような奥行きではない別の深さがある。それは世俗性の新たな深さであり、今ここに内在することの深さです、そのとき世界は、近代的有限性から見たときとは異なる、別種の謎を獲得するのです。我々を闇に引き込み続ける謎ではない、明るく晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです。 214頁
追記
☟千葉さんと波頭亮さんの対談。