「信じない人のための〈宗教〉講義」中村圭志 2007 みすず書房
名著。おおいに蒙を啓かれました。
ヒンドゥー教に関する記述をメモしておく。
インドは巨大だ。巨大ということであれば、たとえば中国も同じように巨大である。しかし中国はインドと同じように人口が多く、多民族が暮らす地ではあるけれど、「漢民族」の文化・伝統という明確な軸があり、そこにとっかかりがある。
インドにはそのような軸はない。インド亜大陸はヨーロッパ全体に匹敵する多様性をもってゐる。
インド亜大陸の人々の伝統的な生きざまを「インド流儀(ヒンドウイズム)」と名づけたのがすなわち「ヒンドゥー教(ヒンドウイズム)」です。キリスト教にはキリスト、イスラム教にはコーランという中心点が存在しており、そこからパワーが発散する放射状組織として全体を理解することができます。しかし、ヒンドゥー教には起源の一点というものがありません。インド亜大陸の全体において自然と湧き上がった戒律や習慣のネットワークとして存在しているだけです。 123-124頁
そういうインドにもいちおう「起源説話」のようなものが存在する。
一つはインダス文明。しかしこれはふるすぎて現在とどの程度のつながりがあるのか、ほんとうのところは誰もわからない。
もう一つは、紀元前1500年前後のアーリア人の侵入。ヒンドゥー教にははっきりした「中心」はないがアーリア文化が系譜上のカナメということになってゐる。
アーリア人は「ヴェーダ(veda:知識)」という宗教的文献を残してゐるからだ。これは儀式に用いる祝詞のようなもので、ヴェーダにはたくさんの神々が登場する。
英雄神インドラ
火神アグニ
太陽神スールヤ
暴風雨神ルダラ
河神サラスヴァティー
など、これらはいってみれば「やおよろずの神々」みたいなもので、みんなスゴイ神。
インドの人々はまた、もっと抽象的な宇宙の統一原理を求めた。
神々は多様 でしたが、神々の形象とはべつに、宇宙を統一する原理を求めた人たちがいました。天地を創造する絶対神を求めるのではなく、もっと抽象的な原理のようなものを求めたのです。こうした問いのなかから、やがてブラフマンという概念が浮かび上がってきました。これは宇宙の最高原理を表す言葉です。 126-127頁
宇宙の本体(ブラフマン)は自己の本体(アートマン)とイコールだ、というのが古代インドの哲人たちの結論でした。自分自身を突きつめていくと、思わず知らずそれが宇宙と同一であることを発見するというのです。自己はめくるめく進化のプロセスにおける一過性の道具などではないらしい。古代インド人の世界には進化も歴史もありません。 128頁
抽象的な宇宙の統一原理がブラフマンであるとすると、この現実、めくるめく社会的世界はどのように把握されてゐたか。
「輪廻」によって。
輪廻説では「業」がある限り何度も生まれかわって新しいわたしとして生を生きることになる。自己を洗い清めて業を振り払うことで解脱することができる。そのためにはほんとうの自己(アートマン)は宇宙(ブラフマン)なんだと観念して宇宙への帰一を果たすしかない。
輪廻的世界観とカーストという徹底した身分制度がインド社会の特徴。
紀元前後に仏教が大流行し、その後に古代からの伝的な神々の祭司が新生ヒンドゥー教として甦った。
ここで崇拝の対象となったのはヴィシュヌとシヴァ。
ヴィシュヌを最高神とする立場もあれば、シヴァを最高神とする立場もある。
またヴィシュヌもシヴァも結局は同じものであるという理屈もあり、それによれば、世界は創造と破壊を繰り返してをり、最高神はまづブラフマーとして世界を創造し、ヴィシュヌとして世界を維持し、シヴァとして世界を破壊する。これを「三神一体(トリムールティ)」という。
神への信仰心を「信愛(バクティ)」と呼ぶ。実践としては食物、花、香、賽銭などの供養(プージャー)が重要とされる。