手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセ」鹿島茂

NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセ鹿島茂 NHK出版 2013

大学生やビジネスパーソンや退職した団塊世代の人といった身近な人達が「パンセ」に出会うという趣向がとっても楽しくて愉快。一気に読んでしまった。みたらし団子をほおばり、熱い緑茶をすすり、鹿島さんの語りに導かれて「パンセ」を読む、至福の時間でございました。

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鹿島さんの「ドーダ」理論が面白い。「ドーダ」理論とは、人間のありとあらゆる活動は「ドーダ、おれ/わたしはこんなにスゴイだろ」と言いたい、それを他人に認めさせたいという欲望に根ざすものであるとする理論だ。元ネタは東海林さだおさんの「ドーダ学」にあるそうで、鹿島さんはこれを援用していろんことを論じてゐる。なるほどたしかにすべてが「ドーダ」であると言えそうだ。

鹿島さんはとてつもない知識人なのに、「こんなに知ってるぞ」とか「文章うまいだろ」みたいな「ドーダ」がない。少なくともぼくには感じられない。それを感じさせない、まったく偉そうでない軽い文体で高度なことを書き、大衆の嫉妬心を刺激しない。そこに鹿島さんの「ドーダ」があるんぢゃないかしら。

「パンセ」はフランスの数学者・物理学者・文学者であるパスカル(1623~1662)の主著。正式なタイトルは「死後、書類の中から発見された、宗教およびその他の若干の主題に関するパスカル氏のパンセ(思索)」という。パスカルが生前に書いてゐた草稿のなかから遺族や編者が宗教や道徳、政治、言語などの関する文章を選び出して編纂した随想集なんだって。

ぢゃあまったく執筆の意図がないのかというとそうでもなくて、「パンセ」は「キリスト教護教論」という著作の一部として構想されてゐたものらしい。神を信じない無神論者や自由思想家に「神なき人間の悲惨さ」を理解させ、キリスト教の正しさを知らしめる、その説伏のために書いてゐたのだ。

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 すなわち、パスカルはまず、読者として、神というものをまったく必要とせず、一度も自分が惨めだと感じずにこれまで生活し、今後も暮らして、やがて死んでいくであろう人間を想定します。無神論者もそうですし、いまの日本人のような無宗教の人間もそうです。ひとことで言えば『神なき人間』です。ところで、こうした『神なき人間』は、当然ですが、自分では惨めだとも感じていないはずです。

 パスカルはこれが許せないです。『神なき人間』が幸せに死んでいってしまうことは容認できないのです。なんとしても、そうした『神なき人間』には惨めに、悲惨になってもらわなければならない。そして、その惨めさや悲惨さの自覚から神を求めるようにならなければならない、とこう考えたわけです。 101頁

パスカルは「パンセ」の後半でキリスト教の「原罪」という概念を出してくる。パルカルにおいては、この「原罪」と「考える」ということが深く結びついてゐる。人間はいやおうなくなにかを考えてしまう、だから「気晴らし」が必要であり、「気晴らし」のない無為な状態に「倦怠」を感じる。人間にとっての幸福とは「気晴らし」であり、不幸とは「倦怠」である。

「気晴らし」がないとき、人間はきっと死すべき運命にある自分のことを考えてしまう。それが惨めで悲惨な人間の運命だ。「考える」人間は悲惨である、しかし、そこにまた人間の尊厳があり、偉大さがある。

「(・・・)もう一度確認しましょう。人間が気晴らしがないと不幸になるのは、気晴らしがないと無為から自分の死すべき運命を《考えて》不幸になり、悲惨へと至るからだ。こういう見方が一方にある。しかし、では《考える》ことが、人間の根源的な誤り、つまりその誕生のときからついてまわっている《原罪》であるかといえば、必ずしもそうではない。なぜなら、《考える》ことには、人間の悲惨とともに人間の尊厳(偉大さ)がセットとして結びついているからである。パスカルはこう考えているのです。この悲惨であると同時に偉大、偉大であると同時に悲惨という点がいかにもパスカル的な人間観なのです」 119-119頁

「悲惨であると同時に偉大、偉大であると同時に悲惨」とは明らかに矛盾してゐる。これはどういう意味か。パスカルは「王」の比喩を持ち出す。

王位を剥奪された王でないかぎり、だれが王でないことを不幸に感じるだろうか? (断章四〇九) 119頁

かつて偉大な王であったことを知ってゐるから、王位を剥奪された王はいま惨めであると感じる。同じように、人間が惨めさ、悲惨さを感じる、まさにそのことが偉大さの証明なのだ。

「王は自分が《王位を剥奪された王》であることを知り、もはや《王》でないことを不幸に感じますが、同時に、自分が《王であったこと》に気づいて、偉大さを自覚するのです。同じように、原罪を与えられた(とパスカルが想定した)人間は、自分が堕落していた悲惨な状態にあることを知り、不幸に感じますが、まさにそのことによって、原罪がなかった『はずの』状態、つまり神とともにあった時の偉大さを自覚するのです。重要なのはどちらも、徹底的に《考える》ということから出てくるのです。《考える》ということは両刃の刃ですが、これなしにはゼロはゼロのままなのです」

 

惨めさは偉大さから結論され、偉大さは惨めさから結論される。(中略)ひとことで言えば、人間は悲惨であることを知っている。よって、人間は悲惨である。なんとなれば、悲惨だから。だが、人間はじつに偉大である。なぜなら、悲惨であることを知っているから。(断章四一六) 122-123頁

なるほど、そうして神に助けられて「考える」ことで神に近づき、悲惨さから脱出できるとなるわけですね。でも「キリスト教護教論」としては完成してをらず、そこらへんはきっちり書かれてゐないので、いまの日本人のような無宗教の人間にも親しめる古典となってゐると。まことに神の配剤とは妙なるものでございますね。