手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り🌴

「古代インド」中村元

古代インド中村元 講談社学術文庫 2004

ここ数日、神経がたかぶって寝つきが悪かった。寝つきが悪いと朝が遅くなる。朝が遅いと一日が短くなり、気がついたら夕方になってゐる。チャコがドックフードを食べなかったり、家でオシッコをしなかったりして、不安になる。集中して読めない、書けない。なんだかイライラする。こころのバランスが崩れたようだ。

さいわい昨日からカタックのオンラインレッスンが再開して、気持のハリを取り戻した。ヌータン先生は一年半ぶりにオフラインでのレッスンも再開されて、オンラインレッスンとオフラインレッスンを同時にやるという新しい試みの始まりだった。広い場所で見本を見せる先生の動きを見て感激した。あの力強さと優雅さと気品が同居してゐるのは奇蹟だと思う。

がんばって7時に起きてすぐに散歩に出て清新な空気を吸った。夕方にも散歩に出た。近所のパピヨン・チョビ君に出会った。あいかわらずハンサムだった。チョビ君、かわいくてかっこよくて最高。おかげで気が晴れた。よいリズムを取り戻したと思いたい。

こころのバランスを崩してゐたので、「古代インド」を読むのにすごく時間がかかってしまった。名著だった。昔の碩学はほんとうにスゴイと思う。いまみたいに面白いコンテンツが溢れてゐる世の中では、中村元井筒俊彦白川静のような、万巻の書を読破した哲人は生れないかもしれない。昔の偉い学者が一般向けに書いた本が好きだ。

以下、重要箇所を筆写する。

インダス文明

 ただ、この文明がどの都市も堅固な城塞をもっていたことは、政治と宗教との両面の意義をもっていたらしい。どの都市もほぼ同一の計画によってつくられていたばかりでなく、インダス文明のすべての都市において、共通な独自の度量衡の制度がきわめて厳密に守られていた。

 とくに軽量のおもりが幾多の遺跡を通じてたくさん発見されている。それは、チャート(硅質堆積岩)・石灰岩などの岩石や玉を用い、たくみな技術で丹念につくられ、大小さまざまであるが、驚くべき正確な定数値をもっている。

 建物のレンガのかたちや大きさまでも一定していた点から考えると、自由諸都市がいくつもあったのではなくて、むしろ単一の中央集権的な国家がこの広大な地域を支配していたものと思われる。そうして、そこには多くの奴隷が使用されていたに違いない。 32頁

アーリア人とは何か

 当時のアーリア人は、彼らのあいだにあった血縁関係・言語・宗教の共同を自覚してはいなかった。しかし、部族間の政治的な統一はなかった。

(・・・)

 したがって、アーリア人の民族的結合をもたらしたものは、政治による統一ではなくして、むしろ宗教に関する共同の自覚である。もともと「アーリア」とは、「部族の宗教を忠実に遵奉せるもの」という意味であり、それが「同じ部族の人々」の意に転じ、そしてその部族が他の土地に侵入して異民族を征服したばあいには、さらに転じて「支配階級の人々」を意味するにいたったのである。

 こうして当時のアーリア人は、じつに国家的な結合によるのではなくて、同じ宗教をともにしているという自覚において互いに結びつけられていたのである。しかも、アーリア人のこのような性格は、その後のインド史を永く規定している。 70頁

バラモン

 バラモンは、じつに三千年余の歴史を通じてインド文化の担持者であった。インドには、かつて政治的・軍事的な統一は、きわめてまれにしか実現されなかった。にもかかわらず、インド人を社会的に統一し、同一民族としての自覚を持たせたものは、じつに司祭者階級たるバラモンであった。インドの一般農民は、武士および商人をさほど重要視しなかったけれども、バラモンに対しては絶対的な尊敬をはらい、帰依してきた。農民とバラモンとのこの密接な結合は、三千年余の歴史を通じて不動であり。インド文化の主流はどこまでもバラモンの文化なのである。 81-82頁

マウリヤ王朝アショーカ王の特異性

 それならば一人の王であるアショーカ王が、どのようにして他のもろもろの王に対する優越性を誇示しえたのであろうか。彼が政治的・軍事的方面における覇者であったということが、もちろん現実面におけるその主要なる理由であったのだろう。だが、彼の主観的意識においては、彼はみずから「法」の実現につとめるという点に、それまでの諸王とは異なる絶大の意義を見出した。彼はマガダ王の資格にとどまりつつも、人間の理法としての「法」を実現することによって全世界の指導者となることをめざしたのである。 178-179頁

 アショーカ王はすべての人間は相互に扶助されているものであり、互いに恩を受けているという道理を強調する。国王とても、その例外ではありえない。国王といえども、いっさいの生きとし生けるものから恩を受けている。したがって、政治とは生けるものどもに対する国王の報恩の行であらねばならない。

(・・・)

 このような報恩の観念は、おそらく仏教から得たものであろう。世界各国の過去の諸帝王は、多くは、人民に対する帝者の威厳と恩恵とを強調した。人民は「君の恩」を無理強いに教えこまれた。これにくらべてみると、アショーカ王はちょうどその正反対である。政治とは報恩の行であると解した点において、アショーカ王は人類の政治史のうえでまったく独自の地位を占めるものである。 181頁

グプタ王朝、インド世界の完成

 グプタ時代の顕著な特徴は、社会全体として、階位的秩序を重んじ、系譜を重視したことである。ヨーロッパや日本の封建制にやや近い体制が、インドではグプタ王朝およびそれ以後に顕著になったように思われる。

 この社会的変化の発端を指摘することはひじょうに困難であるが、ともかく、カースト社会の階位的秩序はグプタ王朝時代およびそれ以後に強化されるにいたった。諸カーストは、幾多の低位カースト(sub-caste)にわけられるようになり、それらのあいだの差別は厳守された。宗教としては、カースト制度を唱道した宗教、すなわちヒンドゥー教がますます優勢となった。

 ヒンドゥー教は多くの国王によって国教として採用された。他方、カースト制度に反対した仏教とジャイナ教とはしだいに衰微した。また唯物論懐疑論などのような多くの異端説はほとんど絶滅してしまった。異端説がほとんど絶えてしまったことは、西洋中世においてと同様であった。かつて初期の仏教徒によって強調された〈平等〉の理想はいつしか消滅してしまったのである。

 こういう社会体制において、ヒンドゥー教が圧倒的に優勢となり、仏教やジャイナ教を制圧するにいたったのである。 338-339頁

仏教はなぜインドでほろんだか(いまのリベラル陣営の苦境に似る)

 したがって、仏教だけが滅びたということは、なにかわけがなければならない。その理由としてまずあげなければならないことは、仏教はもともと合理主義的な哲学的な宗教であったことである。そのために、ややもすれば一般民衆に受け入れられにくい傾向があった。

 仏教は、呪術・魔法のようなものを排斥した。それのみならず、バラモン教で行う祭祀をも無意義として排斥した。また、インドの社会に伝統的なカーストという階級制度に反対して、すべての人間は平等であるととなえた。そのために、階級的な差別を立ててこれを固守しているバラモン教とは氷炭あいいれないものとなった。バラモン教はいうまでもなく、インドの民族宗教である。 364-365頁

 仏教教団は在俗信者のことをあまり問題とせず、強固な俗人信徒の教団組織を形成しなかった。これはジャイナ教と対蹠的である。そうして、民衆に適合しようとあらゆる努力をなしたにもかかわらず、ついにヒンドゥー教諸派がしていたことーーつまり、在俗信者と密接な関係をたもちつつ、それを指導する努力をしなかったことである。

(・・・)

 すなわち、家庭生活の内部にまでもはいって、民衆を積極的・組織的に指導することをしなかったという点に、仏教が滅びた一つの遠因を認めることができる。 370-371頁

インド文化の連続性

 インド人はしばしば国王と盗賊とを同類のものとして扱ってきた。王朝が替わったということは、インドの民衆にとっては町の暴力団の親分が替わったという程度の意味しかもたなかった。彼らは暴力をもって人民に危害を加える。だから税金や貢物を言われるがままに払って、厄のがれをしておればよいくらいにしか考えていなかった。

 彼らは司祭者としてのバラモンを崇拝し、その指示にしたがうことによって生活をつづけていた。民衆はむかしながらのヴェーダの祭りを行い、ヒンドゥー教の生活習慣を保持しつづけていた。この構造を、侵入してきたいかなる蛮族もイスラームも変更することができなかった。

(・・・)

 グプタ王朝まででインド文化の類型的特徴はいちおうできあがったのである。つぎの時代になると、それを洗練し、より精密繊細なものとしたという点で発展が見られる。

 つぎの時代に起こったイスラームの侵入は、インド人の社会生活に大きな変動をもたらし、一部の人々はイスラームに改宗したが、他の人々にはかえってヒンドゥーとしての自覚を起こさせた。そうして彼らはむかしからのヒンドゥーの文化を仰ぎ見て、それをよりどころとしたのである。 419-420頁