手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「グレート・ギャツビー」スコット・フィッツジェラルド

グレート・ギャツビースコット・フィッツジェラルド 中央公論新社 2006

映画はロバート・レッドフォード版とレオナルド・ディカプリオ版と両方見てゐたけれど、小説を読むのはこれが初めてだった。村上春樹さんの翻訳が出てああ読みたいという気持ちがずっとあり、けれど先延ばしになってゐたのが、なんとなく今かなという感じがして手にとった。

とてもよかった。哀しくて美しい物語だ。

ギャツビーは虚構のなかで生きてゐる。彼は自身が描いた夢を具現化する力をもってゐる。それはとても華やかな世界だから人を惹きつける。しかし彼の世界はあまりに現実離れしてゐるがゆえにどこか空虚で怪しい。恐怖さへ感じさせる。彼のような人物、彼の夢見る世界が、この世に存在し得るはずがないではないか。

(・・・)実のところギャツビーは、僕が「こんなものは絶対に我慢ならない」と考えるすべてを、そのまま具現したような存在だった。もし人格というものが、人目につく素振り(ジェスチャー)の途切れない連続であるとすれば、この人物にはたしかに驚嘆すべきものがあった。人生のいくつかの約束に向けて、ぴったりと照準を合わせることのできるとぎすまされた感覚が、彼には備わっていたのだ。 11頁

ギャツビーの微笑みは彼自身の「プラトン的純粋観念」の結晶である。だからその微笑みは「世界の全景」と対峙できるほどの力がある。

 彼はとりなすようににっこり微笑んだ。いや、それはとりなすなどという生やさしい代物ではなかった。まったくのところそれは、人に永劫の安堵を与えかねないほどの、類い稀な微笑みだった。そんな微笑みには一生のあいだに、せいぜい四度か五度くらいしかお目にかかれないはずだ。その微笑みは一瞬、外に広がる世界の全景とじかに向かい合う。あるいは向かい合ったかのように見える。それからぱっと相手一人に集中する。たとえ何があろうと、私はあなたの側につかないわけにはいかないのですよ、とでもいうみたいに。その微笑みは、あなたが「ここまで理解してもらいたい」と求めるとおりに、あなたを理解してくれる。自らがこうあってほしいとあなたが望むかたちで、あなたを認めてくれる。あなたが相手に与えたいと思う最良の印象を、あなたは実際に与えることができたのだと、しっかり請け合ってくれる。そしてまさにそのポイントにおいて、微笑みは消えるーーーー今僕の目の前にいるのは、エレガントだがどこか粗暴さのうかがえる一人の若い男である。三十をひとつか二つ越えたくらい。その念の入った丁重な物言いは、危ういところで滑稽の域に達することを免れている。彼が名前を名乗る少し前から、この男はとても注意深く言葉を選んでしゃべっているなという強い印象があった。 92-93頁

ギャツビーの華麗なる夢は、虚構は、ついぞ現実的な着地点を見出すことができない。彼は現実的なことに我慢ならないのだ。観念の世界と比較すれば現実にあるすべてのものが色褪せ、劣って見える。手に入れる前に抱いてゐたあこがれのほうが美しい。遠くの光のほうが輝いてゐる。

「霧さえ出ていなければ、湾の向かいにあなたのうちが見えるんだが」とギャツビーが言った。「お宅の桟橋の先端には、いつも夜通し緑色の明かりがついているね」

 デイジーはふいに、彼の腕に自分の腕をからめた。しかしギャツビーは、自分が口にした言葉に深く囚われているようだった。その灯火の持っていた壮大な意味合いが、今ではあとかたもなく消滅してしまったことに、自分でもおそらく思い当たったのだろう。デイジーと彼を隔てていた大きな距離に比べれば、その灯火は彼女のすぐ間近にーーーー彼女の触れるくらい間近にーーーーあるものとして見えた。月に対する星ほどに近いものに思えたのだ。しかし今ではもう桟橋の先端についた、何の変哲もない緑色の灯火に戻っていた。彼が魅了されていた事物が、またひとつ数を減らしたわけだ。 172頁

(・・・)結局のところ、彼の幻想の持つ活力があまりにも並外れたものだったのだ。それはデイジーを既に凌駕していたし、あらゆるものを凌駕してしまっていた。彼は創造的熱情をもってその幻想に全身全霊を投じていた。寸暇を惜しんで幻想を補強増大し、手もとに舞い込んでくる派手な羽毛を余すところなく用いて日々装飾に励んできたのである。いかに燃えさかる火も、いかなる瑞々しさも、一人の男がその冥府のごとき胸に積みあげるものにはかなわない。 177-178頁

ギャツビーは自身の圧倒的な虚構の世界に押しつぶされるようにして死んでしまう。夜ごとのパーティーにはたくさんの人が来てゐたのに弔問には誰も来ない。

一瞬だけこの世に実現した、もう消えてしまった、儚い、きれいな夢の跡だけが残る。

 ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと早く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。・・・・・そうすればある晴れた朝にーーーー

 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。 325-326頁