「インド思想史 第2版」中村元 岩波書店 1968
寒暖差が大きくてつらい。からだが弱いので体調がすぐれないのはいつものことだが、花粉が終って安心したところへこう暑いの寒いのがくるとたまらない。おかげでこの二週間ほど元気がない。おまけに岸田首相へのテロ未遂があり世相のいよいよ穏かならざるを見るにつけて憂鬱である。
しかし本を読む気力があるということはまだ大丈夫らしい。実際のところ、本を読むのはけっこうエネルギーのいることだから。
「インド思想史」を書いた中村元は仏教研究者として知られてゐる。パーリ語やサンスクリット語を修めて原語で仏典を読むというのはどういう体験なのだろう。中村さんの本を読むと、中国朝鮮を経て本邦に入り鎌倉時代に独自の進化を遂げた仏教ではなく、インドに生まれた、インド思想のひとつとしての仏教みたいなのが分かる気がして面白い。
ふつう日本で仏教について語るとき「アートマン」みたいな言葉って出てこない気がする。日本ではヒンドゥー教と仏教は別物だからだ。でも、原始仏教はブラフマンやらアートマンやらについて考えるバラモン教への批判として出てきたもので、インドにおいて仏教はヒンドゥー教の一宗派みたいな位置づけになるらしい。
しかし、仏教ではアートマンを否定したのではなくて、人間の倫理的行為のよりどころとしてのアートマンを承認していた、釈尊の臨終の説法の一つは、「自己(アートマン)にたよれ。法にたよれ。自己を燈明(または島)とせよ。法を燈明とせよ」ということであった。人間の理法を実践するところに真の自己が具現されると考えていたのである。 59頁
輪廻とか縁起といっても妙な感じがしないが、ふつうの会話で「アートマン」が出て来たら浮いてしまう。なんか途端にいまふうのスピリチュアル感じがして怪しく思われるかもしれない。概念=言葉が血肉化されるにはそれだけ時間がかかるということなんだろう。
そう考えると、権利とか公共とか個人という概念に日本人がピンとこないのも仕方ないことのように思える。どうやら非西欧世界全体で近代に対する反動が起きてゐるらしいのだが、自分には「らしい」くらいしかわからず困ってゐる。
ところで、次の箇所、祭式を司ったバラモンたちの思惟が形而上学へと発展する理路を説明してすこぶる面白い。
ところで、祭式は古来、宇宙および人生の諸事象を象徴的にかつ具体的に具現していると考えられていたから、祭式の真意義を追求するにつれて、さらに進んで宇宙および人生それ自体の形而上学的意義を考察するに至った。最初は自然・人生・祭式に関する何らかの事物あるいは要素が絶対視されていたが、ついにアートマンあるいはブラフマンを絶対者として想定するに至った。このアートマンあるいはブラフマンを知るならば、われわれは絶対の安心立命の境地に達し得る。それが解脱である。それは祭祀によっては達せられないとした。
さてブラフマンとは、もとは神聖で呪力にみちたヴェーダの語のことである。すなわち、ヴェーダの讃歌・祭詞・咒詞、さらにそこに内在する神秘力をも意味した。 25頁
ブラフマンとはヴェーダの語である。神を知るためには言語を研究せねばならないというのでインドでは文法や音韻の研究が発達した。それが中国に入った。そして唐に渡った空海らの僧がこれを学び悉曇学が発達した。五十音図は悉曇学の影響によると言われてゐる。いい話だ。
この時代以後、サンスクリットは発音も単語も文法もほとんどの同一のものを守り続けていて、西紀四世紀以後にはその勢威はインド文化全体にわたって支配的となった。その巨大なサンスクリットの文化的勢力を維持・擁護したものは、バラモンの文法学者であった。 86頁
文法学派のバルトリハリ(五世紀後半)は文法研究こそが解脱への門であると考えてゐたらしい。ブラフマンは語よりなるから語の研究が解脱につながるのだという。そのように神を信じ、言葉を信じてゐたひとが、世界があったのだ。
以下の議論、むづかしいが、何度も読んでなんとなく理解できた。これは凄い。感激しました。
かれによると、絶対者ブラフマンは常住な実体であり、空間的・時間的規定を超越している。それは相互に依存関係にある一と異、有と無というような対立的観念を超越しているから、ことばを以て表示することができない。有が無となり、また無が有となることもないから、変化一般が否定されねばならない。しかしそれはまた絶対者であるが故に現象界の差別相・多様相を成立せしめる基体でもある。ところでそのことが可能であるのは、ブラフマンが語より成るものであるからである。
語と意味との結合関係は常住不変であるが、語の本体は単なる音声ではなくて、スポータ(sphota)と呼ばれるものである。スポータは音声によって開顕され、意味を顕現するところのものである。それは音声の生滅変化を超越していて常住であり、単一不可分である、単語の表示する意味は類にほかならないが、その類は単なる中小観念ではなくて、客観的実在性を有するものである。
類はそれを包摂する上位の類に対しては特殊者であるから、上位の類に対するその関係性を遡及してゆくと、終局においては「有性」(satta)に帰着する。したがって一切の語の意味は結局その本体においては有性にほかならず、無内容であるが、しかしそれに種々の添性(upadhi)の内容的限定を受けて種々の類を成立せしめている。
有性のみが真実なる絶対者であり、類を類として成立せしめる所以のものは非真実であるから、いかなる概念でも一般に普遍者に対しては非真実であり、特殊者に対しては真実である。非真実とは真実の欠如態にすぎず、両者の間に区別は存在しない。
人間の活動は語にもとづいて行われる。語の本性を理解せしめ語の正しい用法を教えるところの文法学は解脱への門である。 166-167頁 改行を追加した