「岩井克人「欲望の貨幣論」を語る」丸山俊一 2020 東洋経済新報社
貨幣は商品ではない。500円玉はモノとしては小さな銅の切れ端にすぎない。製造費用は50円もしないが、これが500円の価値あるものとして流通してゐる。つまり、おカネのおカネとしての価値がおカネのモノとしての価値を上回ってゐる。無から有が生れるという不思議なことが、おカネには起ってゐる。
おカネの価値は「私」が与えるのでも「国家」が与えるのでもない。「ほかの人」「社会」が与える。そして資本主義社会においては、貨幣の価値だけでなく、商品の価値も、社会によって与えられる。では、貨幣と商品はどこが違うのか。欲望の差である。商品には、それをモノとして消費する人の欲望という根拠がある。しかし貨幣にはモノとしての価値はなく、それを○○円の価値あるおカネとして受け取ってくれると思ってゐるから価値がある。貨幣とは貨幣であるから貨幣である。
自分がモノとして使うためではなく、将来、ほかの人に売るために何かを買うことを「投機」という。投機はかならずバブルを生み、バブルはかならずパニックを招く。モノとしては使い道のないおカネをおカネとして流通させるという行為は「純粋な投機」であるといえる。おカネを使うことそのものが「投機」である。資本主義社会はおカネがすべてを支配する社会である。ということは、資本主義社会は本質的に不安定性を有するということになる。
貨幣交換が拡大していくと、人々は貨幣それ自体を欲するようになる。これをアリストテレスは「政治学」のなかで「貨幣が交換の出発点であり、終極目的でもある」経済活動と呼んでゐる。人間が欲望できるモノには限界があるが、モノを手に入れ消費する「可能性」には限界がない。「可能性」に対する欲望は無限である。ここにおいて、あるゆるモノを手に入れられる「可能性」を与えてくれるものとして、貨幣への無限の欲望が発生する。「貨幣の無限の増殖」を求める経済活動とは資本主義のことである。アリストテレスは資本主義を発見したのだ。
紀元前6世紀のギリシャのポリスは、歴史上もっとも早く全面的に貨幣化された社会だった。貨幣は一般的な交換手段であり、これを媒介とすることで、さまざまな性質をもつすべてのモノが一つの抽象的な価値に還元されてしまう。貨幣は平等である。人々は神々の世界から、共同体から、血族から解き放たれ、孤独な個人となる。そう、貨幣化された古代ギリシャ社会は、「近代社会」だったのだ。
グローバル資本主義のもとで、資本主義に対抗してきた共同体的な慣習や規範、国家や中央銀行による規制や介入といった「外部」が弱まり、資本主義が本来的にもつ不安定性が顕在化してきた。金融危機、経済格差、環境問題などである。人間の無限の欲望と、貨幣の無限の増殖が、社会を崩壊させつつある。これを食い止めなければならない。人間はいかに倫理的な存在となりうるか。
この逆説に立ち向かうには、アリストテレスが言う「他者との関係における善」について、もう一度考え直す必要があります。そして、そのためには、ドイツの哲学者イマヌエル・カントの倫理学が、重要な手掛かりを与えてくれるはずです。なぜならば、資本主義の「普遍性」に匹敵しうる「普遍性」を持つ対抗原理は一つしかないからです。「他のすべての人間が同時に採用することを自分も願う行動原理によってのみ、行動せよ」と命ずるカントの道徳律です。それは、まさに普遍化が可能であることのみを条件とした純粋に普遍的な行動原理にほかなりません。しかも、おたがいの同意さえあれば各人の自己利益追求を許すという意味では、資本主義と両立します。そして、他者を一方的に搾取することを禁ずるという意味では、環境破壊や格差拡大や金融投機といった資本主義の暴走の歯止めとなりうる原理でもあるのです。 160-161頁