手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「なぜリベラルは敗け続けるのか」岡田憲治

なぜリベラルは敗け続けるのか」岡田憲治 2019 集英社インターナショナル

岡田氏は「リベラル」にたいして次のような柔らかな定義を与える。

(・・・) 私がもし「リベラル派」だとするなら、それは鋼鉄のようなイデオロギーがあるからではないのです。私の考えをもう少しだけ丁寧に言うとこういうことです。

現代社会はグローバルな世界なのだから、国家の権威や家族の伝統などという価値よりも、この世界を支えている多様な人たちと個人として結びついて、風通しよく自由にものが言え、『努力など無駄だ』とすべてを諦めてしまう人をなるべく少なくする世の中を、自分と同じ欠点だらけの友人たちと相談しながら、なんとか運営するしかない」と。 20頁

2012年末に誕生し今も続いてゐる第二次安倍政権は、このような「リベラル」的価値とは対立する人たちの集まりだ。国家の権威や家族の伝統を硬直的なイデオロギーに仕立て上げ、それに服従しない人達を排除する。民主的プロセスをことごとく無視し、文書や記録を残さず、法治の原理を破壊してきた。

こういう状況に危機意識を持ってゐる人はとても多い。実際のところ、積極的に安倍政権を支持してゐる人は少ない。しかしリベラリズムに基づく政治を目指す野党陣営は負け続けてゐる。これを書いてゐる2020年7月現在、勢力回復の兆しはゼロと言っていい。かなり深刻だ。

なぜリベラルは敗け続けるのか。岡田氏はその理由を端的に「ちゃんと政治をやってゐない」からだと言う。

「わたしたちは子供だった、もうちょっとオトナになろうよ」と。

 サッカーで言えば、残り時間もわずかで一点取らないとW杯予選敗退なのに、綺麗なパスだの、サッカーの本質だの、そんなことにこだわって、敗戦後のインタビューで「俺たちのサッカーをやるだけです」などとなおも意味不明なことを言っている、残念なサッカー選手のようです。サッカーはしてるつもりでしょうが、サッカーの「試合をちゃんとやっていない」のです。

 考えていることの本来的な正しさや正義ではなく、「今何をしなければならないか」という問題に立ち向かう時の自民党側の人たちの「オトナぶり」に(半分、揶揄をこめつつ、同時に「うーん」と唸りながら)、私は舌を巻いています。

 野党のバラバラぶりとは対照的に、自民党選挙対策は実に統制が取れており、何もかもが計算ずくです(公約や政策の整合性などは全部放置ですが)。彼ら自民党から見れば、今の野党を負かすのは赤子の手をひねるほど簡単なことでしょう。なぜならば、いつものように正論を言わせて、ひたすらバラバラに戦わせておけばいいからです。 29-30頁

ああ、まったくそうだ。リベラル陣営はみなそれぞれが正しいことを言って主導権争いをえんえん繰り返し、つぶし合って疲弊して、現在の惨憺たるありさまとなったのだ。

みんな正しいのだけれどそれで争ってしまうから、最近は「正しいこと言ってるリベラルってうざいよね」というリベラル叩きのほうが受けてしまって、そっちの勢力のほうが元気なくらいなんだ。

でも、そういうリベラル叩きって要するに小賢しいだけだよ。小利口というやつ。

ここまで安倍政権が国民からソッポを向かれてゐるのに、まだゴタゴタやってゐる野党共闘とその支持者はそうとうダメだ。ぼくも野党共闘を応援してきた人間だから、自分にも責任がある。まことに、慙愧に堪えない。

この本はリベラル陣営に「大人の政治をしよう」と呼びかける。具体的にどのようなものか、ここではぼくが一番ああ大事だなあと思った箇所をメモしておく。

 政治に参加するということは、つまり政治が抱える様々な問題に対して、自分なりの意見を持つだけでなく、その上で「とりあえず」の決断をするプロセスに加わるということに他なりません。

 それは前に述べた「どこの党に投票するか」という問題にも通じることです。

 政治においては、誰が見ても最善の手、これしかないという究極の一手というのはほとんど存在しません。それがあれば、そもそも政治的な格闘にならないからです。

 ですから「政治をする」ということは、今の世の中の問題は要するにこれこれこういうことだと「腰だめ」で決めた上で、「エイヤッ」と蛮勇をふるって決断をするということです。その決断に対して、周囲からは野次と怒号、怨嗟と嫉妬の光線を受けるのは避けられません。

 そらがイヤだから人は「決められない」、あるいは「決めたのは決めたけど、責任は取れない」と逃げ腰になるのです。しかし、自分が決断しなければ、誰かが代わりに決断することになり、その決断を渋々受け止めるしかなくなります。

 誤解してはならないのは、「賢明な判断を下せるのが大人」なのではないことです。採用した判断が本当に正しいのか、人々の幸福な生活や人生に貢献するのか、それは最後まで分からないのです。分からないにもかかわらず、決断をするのが政治というものだと思います。

 それは時として、苦痛を伴いますし、場合によっては他者を切り捨てるようなことも起こります。これもまた政治の持つ非情な特質です。

 しかしながら、そうであるからこそ、我々は我々を結びつけるものとしての議論をしなければならないのです。その面倒臭さから逃げて、相手を黙らせる、最後に自分が一言モノを言って終わりにさせることを目的に議論などしていたら、私たちはいつまで経っても「味方を増やす」ことはできず、「あいつの言うことは正しいんだろうが、絶対に一緒に政治なんてやらねぇよ」と相手の心を閉ざさせてしまいます。

 その分かれ目はひじょうに重要だと、ここで私は強調したいと思います。 107-108頁

神の視点に立とうとするな。後だしジャンケンで批判するな。自分が正しいと信じることを主張するのは気持ちいいかも知れないけれど、それで人がこころを閉ざしたらなんの意味もない。仲間が増えないと政治的な力にならない。したがって権力を握れない。権力を握れないなら、いくら正しいことを考えてゐたって政治は変わらないぞと。

 己の輝く理想ではなく、一定期間の実現可能な工程表を作成し、それをもって政治的な友人関係を構築して、それを社会に示すこと、つまり本当の意味での「政治」をなすべきだと私は思うのです。

 これまでの私は、こういう風に「政治」を考えることがなかなかできませんでした。しかし、今、私は政治と思想の関係を淡々と認め、それを腹に据え、謙虚に友人に語りかけ、きちんと覚悟を持って決定や決断をする大人になりたいと考えているのです。 214頁

ぼくもまた、これまで「政治」をそういう風に考えることができずにきた。自分の未熟なふるまいや傲慢な態度で人を不快にさせたことがあったと思う。大いに反省する。

いまの政治状況はかなり厳しい。みんな疲弊しすぎて虚無的な空気が横溢してゐる。

「最悪だ」と言いたくなる。

しかし「最悪だと言ってゐられる間はまだ最悪ではない」とリア王は言った。

まだ余裕がある(苦しい💦)。

なんとか、踏ん張っていきたいですね(再び、苦しい💦)。