「橋をつくるために」
教皇フランシスコ ドミニック・ヴォルトン 訳:戸口民也 新教出版社 2019
この鼎談がほんとうに素晴らしくって、教皇フランシスコに関心をもった。
ラジオの中で批評家の若松英輔さんが本書をすすめてをられたので読んだ。
結論をいうと、ラジオのほうが面白かった。若松さんの語りのほうが心に沁みた。
だから若松さんの本を読んだほうがよいのかもしれない。少なくともぼくにとっては。
二点、メモしておく。
まづ「民衆」について。
民衆は論理的な概念ではありません。神話的な概念です。「神話」なのです。民衆を理解しようと思ったら、フランスやイタリアやアメリカの村に行けばいいのです。皆、同じですよ。そこに、民衆の生活があります。でも、説明することはできません。国民と国と民衆との違いを説明することはできます。国は国境で囲まれているところ。国民はその国を法的に構成している人々です。でも、民衆は別のものです。最初の二つの言葉は論理的概念ですが、民衆は神話的概念です。民衆を理解しようと思ったら、民衆と共に生きなければなりません。そして、民衆と共に生きた人だけが、理解できるのです・・・わたしはドストエフスキーのことを考えています。彼は民衆を理解していました、「神を信じない者は民衆を信じない」。これはドストエフスキーの言葉です。 139-140頁
「民衆」は神話的概念である、という発想。すごく重要だと思った。これはよくよく考えてみなくてはならない問題だ。
それから「コミュニケーション」について。
(・・・)神はどのようにコミュニケーションするか、ということです。神は進むべき道を示しながら、 ご自分の民とコミュニケーションします。イスラエルの民、エジプトで奴隷となっていた民と・・・でも、いつも身を低くしながら。神はキリストのうちに、身を低くされるのです。それが、神学者たちが「神のへりくだり」と呼んでいるもので(・・・)神が身を低くしてコミュニケーションするわけです。そしてこのように、人間は神の似姿なのですから、人間のひとつひとつのコミュニケーションも、本物のコミュニケーションとなるためには、身を低くしなければなりません。相手のレベルに自分を置くことです。身を低くすること、相手が自分より劣っているからではなく、謙遜な行為、自由な行為としてそれをするのです・・・
(・・・)
大事なことです。これは規則なのです。もしもわたしが自分自身から抜け出し、身を低くして相手を探しに行かなければ、コミュニケーションは不可能です!コミュニケーションするということは、少し気取った言い方をするなら、謙遜な行為なのです。謙遜なしにはコミュニケーションはできません。 361-362頁
これにはひっくりかえった。こんなコミュニケーション論はじめて聞いた。
神は身を低くしてコミュニケーションする。謙遜の行為だ。人間は神の似姿であるから、真のコミュニケーションであるためには謙遜がなければならない。したがって謙遜がなければコミュニケーションではない。
おもしろなあ。
ぼくはキリスト者ではないので、人間は神の似姿であるとは思ってゐない。しかし神を信じ、人間は神の被造物だと信じるゆえに、この論理は受け入れられる。
人間が神とコミュニケーションできるとしたら、それは「神のへりくだり」があるに違いない。これが真のコミュニケーションだ。とすれば、被造物である人間同士のコミュニケーションも、それが真のコミュニケーションとなるためには謙遜がないといけない。謙遜のないところにコミュニケーションはない。
なるほどなあ。
散歩しながら、じっくり考えてみよう。