「新記号論 脳とメディアが出会うとき」石田英敬 東浩紀 ゲンロン 2019
記号学・メディア論の石田英敬氏と「ゲンロン」創業者で哲学者の東浩紀氏との共著。
石田氏が東氏を聞き手としておこなったゲンロンカフェでの講義を書籍化したもの。
フロイト・ソシュール・パース・スピノザ・ダマシオ・・・という人文知の総動員&それを最新の脳科学と工学的知に接続していく圧巻の14時間白熱講義だ。
白熱、というのは、
石田:さあて、ここからが本題です。
東:まだ本題ではなかったんですか!
石田:まだまだです(笑)
とか、
石田:ここからが今日の山場となります。
東:え?いまのは山場ではなかったんですか!?
石田:はい。
とか。こういう展開が何度もあり、そのたびに「おー!」となる。
熱すぎる講義、終わらない脱線、過ぎてしまう終電、帰らない観客(!)。
こういうマジックが起るのがゲンロンカフェ。
いや~、最高でした。
↑は昨年、東京大学大学院 情報学環を退官なさった石田先生の最終講義「文明の療法としてのメディア記号論」。
「石田記号学」がどのような構想と射程をもつものなのかを知ることができる。
↑は大学院での講義「フロイトへの回帰:デジタル・ヒューマニティーズと無意識」。
「新記号論」の第二講義はフロイトの読み直し&再構築なので、予習・復習にぴったり。
また「こちら」に「情報記号論講義 総括と展望」という資料がある。これは石田先生が退官にあたって記された大学院における講義の総括で、「石田記号学」の概要がまとまってゐる。
「新記号論」はけっこうヘビーでむづかしい。哲学・思想の抽象的な議論に慣れてゐない人がいきなり読むと消化不良になってしまう可能性がある(ぼくはそうだった)。
そういう方は以下の順番で読みすすめると、最高の読書体験・知的興奮を味わうことができると思う。
1、最終講義「文明の療法としてのメディア記号論」を見る(時間のない方は52分ころから15分だけでもよい)。
2、「大人のためのメディア論講義」を読む。
3、「新記号論」の第1、第2、第3講義を読む。
4、「情報記号論講義 総括と展望」を読む。
5、「新記号論」の「補論」を読む。
これでバッチリ。
内容について、簡単にふれておきたい。
最終講義のタイトルに「文明の療法」とある。
人は病気になったら医者にいく。そして処方された薬を飲んだり、アドバイスにしたがって生活習慣を改善するなどして、病気を治す。あたりまえにやってゐることだ。
それと同様に、人間がつくってゐる文明、人間がそのなかで生きてゐる文明もまた病気になる。文明もまた治療せねばならない。
どうやって?
学問によって。
理論をうちたて、それに基づいて正しく「批判」することによって、文明を治療せねばならない。
ここで「批判」とは「それが何であるか、何が起ってゐるのかを、正確に理解する」というほどの意味だ。
たとえば、安倍政権がなぜこれほど長期化してゐるのか。これを正しく理解するためには、歴史学、政治学、社会学といった学問が必要になる。これらの「知」の助けなしに「それが何であるか、何がおこってゐるのかを、正確に理解する」こと、すなわち「批判」することはできない。
学問はそのように「役に立つ」ものである。
「石田記号学」は何を「批判」するための理論か。
「普遍的にコンピュータ化した世界」だ。
(・・・)では、私のいう、「世界そのものが記号論化した」とは、いったいどういうことなのかを説明しましょう。
いまでは、電話もテレビもカメラもビデオも、要するにあらゆるメディア機器・情報通信機器が、デジタル化したことはみなさんご存知ですよね。日本では数年前にテレビのデジタル化ということが実現されて、アナログテレビの時代は終了しました。これは、テレビが全面的にコンピュータになったことを意味しています。本の電子書籍化ということが、最近さかんに喧伝されていますが、これも本がコンピュータになりつつあるということです。
電話もテレビも家電も本も新聞も、みなそれぞれちがう姿をしているけれども、どれもこれもみな、原理的にはコンピュータになっていく。いまでは、メガネがグーグルグラスになったり、車がコンピュータになったり、モノのインターネット(IoT)とかいわれるように、あらゆるモノにICチップが埋め込まれて、現実世界のほぼ全体が、コンピュータの原理で動くようになった。私たちの世界は、普遍的にコンピュータ化した世界になりつつある。それこそが、私が「世界が記号論化した」と言うときに、意味している事態です。 「大人のためのメディア論講義」50-51頁
「普遍的にコンピュータ化した世界」においては、情報テクノロジーがありとあらゆるものを「データ」に還元してしまう。
(・・・)これは現象学的な還元や脱構築よりももっとずっと完璧に破壊的な「還元」であって、意味も意識も時間も社会も政治もなにからなにまですべてがデジタルデータに還元されてしまうことになったわけだ。それで、いま人文学者や哲学者たちには、すべてがデータに還元されてしまったときに、意味とは、意識とは、時間とは、社会とは、政治とはなにか、を至急答えることが求められている。 「新記号論」292頁
「普遍的にコンピュータ化した世界」において、意味も意識も時間も社会も政治も変わってしまった。
いったい何が起ってゐるのか。これを正しく把握しないことには、問題に対処することはできない。
なぜこんなに忙しいのだろう。なぜスマホを手放せないのだろう。なぜこんなに話が通じないのだろう。なぜこんなに分断がすすみ、ポピュリズムが亢進してゐるのだろう。
メディアと脳が出会う、そのとき、いったい何がどうなってゐるのか。
こういう世界で、人間とは何か、自分とは、何か。
「石田記号論」はこのような問題を考えるためのスケールの大きい理論だ。
小さな世界は大事だ。何事も、先ず隗より始めよ。しかし、やっぱりデカイ話もしなきゃいけないと思う。
ぼくはデカイ話が好きだ。