「智恵は信仰者の落とし物である。だからどこで見つけようとも、それを取りなさい。」とは預言者ムハンマドの言葉である。すべての真理は、誰が語ろうとも、それはイスラームなのである。 147頁
ぼくは現代のイスラーム諸国の政治情勢とか、日本におけるイスラームの受容などについてはあまり関心がない。
主にイスラーム神学に興味がある。
そういう自分には、本書の第三章「アッラー」と第四章「預言者ムハンマド」は最高だった(もちろん他の章も面白いけれど)。
これまで読んできた中田先生のどの本よりも高度で、深い議論が展開されてゐて興奮した。
イスラーム神学は存在者を、
一、空間を占めるもの(「物体」=人間、目など)
二、空間を占めるものに依拠するもの(「偶有」=男性、賢者など偶然的性質)
三、空間を占めず、また空間を占めるものに依拠する属性でもないもの(宇宙の創造者、唯一神アッラー)
に三分する。
一の「物体」と二の「偶有」の総体が「宇宙」である。「宇宙」はアッラー以外のすべての存在者を意味する。
神と宇宙の存在の根本的乖離。これがイスラーム神学の基本前提となる。
アッラーは時空の創造者であって、時空によって拘束されることはない。宇宙であれ、異次元であれ、いかなる場にもアッラーは存在しない。
時空を超越したアッラーの存在は、そもそも「どこに」と答えられるようなものではない。アッラ-はどこにも存在しない。
木石、天体は言うに及ばず、いかなる人間、天使、悪魔、あるいは宇宙人、異次元生命体、超常生命体であれ、それがどのように我々のような通常の人間を超えた能力、性質を帯びようとも、時空の中に存在する限り、それは被造物に過ぎない。そして時空の中に存在するいかなる被造物をも神とすることを決して許さない。これこそがイスラームの根本教義である。 157頁
創造者と被造物との完璧な分離、この圧倒的な超越性がぼくにはとても魅力的に感じる。世界がとてもクリアに見えてくるような気がする。
変なたとえだけれど、はじめてIMXの映画館で映画を見たような感じだろうか。
森羅万象のすべてがきれいな輪郭をもち、粒だってこの目にうつるのだ。
宇宙に存在するものはすべて時空の束縛をうけているが故に、完全な「存在性」を欠く。完全な「存在性」を欠くもの、空間において不在となり、時間において無に帰するものは決して「神」たり得ない。それゆ宇宙の中にはどこにも「神」はいない。
これがイスラーム神学の出発点となる。 164頁
アッラーは万物の創造主である。アッラーのみが森羅万象をつかさどり、何者もアッラーの意志なくしては存在し得ない。被造物はすべて、神の御許にある。
万物は、アッラーの創造の御言葉によって初めて「存在」を与えられることになるのであるが、実はこうして宇宙の中に存在せしまられる以前から、それらはすべて、時の一点において「存在」の世界に呼び出されるべき予定されて、永遠の過去から永劫の未来に至りアッラーの知識の中に恒存している。我々のこの世界に存在するものだけではない、すべての可能世界の事物もまたアッラーの知識の内部に恒存しているのである。 180頁
アッラーは唯一の絶対的な存在者で単一なものだ。その単一なものに森羅万象という「多」が恒存している。このアポリアをイスラーム神学では「一なる絶対者の顕現」という流出論モデルで説明するという。
アッラーは、なぜ、この宇宙を、世界を、森羅万象をつくったか。
中田先生は、井筒俊彦「イスラーム哲学の原像」の430-435頁を引用する。ここでは孫引きになる。
この絶対的一者は自らのうちに現象的存在の次元で自らを顕そうとする協力な根源的傾向があります。この存在的衝迫とでもいうべきものに言及した有名な「ハディース」(ḥadīth)があります。(略)
神がこう言います。(略)「私は隠れた宝物であった。突然私のなかにそういう自分を知られたいという欲求が起こった。知られんがために私は世界を創造した。」(略) 182頁
この「存在的衝迫」を「(神の)慈愛の息吹」というらしい。
「(神の)慈愛の息吹」が最初に発現してくるところを「ワーヒド」という。この「ワーヒド」は純然たる「一」、「統合的一者」である。
「ワーヒド」という神の内部構造を存在論的に領域化して考えたものをワーヒディーヤと呼ぶ。
存在は神の自意識の世界において潜在的に分節化されてをり、これが多者の世界、多者の次元で現実的に現われてくるという。
「存在的衝迫」とか最高だなあ、などとぼくは思うのだけれど、イスラームに関心のない人からすれば、こういう説明は、やはりこじつけに感じられるようだ。
アッラーは自分を知られたいという存在的衝迫によって世界をつくったという話を友人にしたら、「やはり神というのはクソ野郎なんだね」と言われてしまった。
「なぜこんな殺し合ってばかりのおろかな人間を神はつくったのか。こういう世界を知られたいと思って創造するというのはそうとう悪趣味だよね。ひどい。世界というのはクソゲーだよ」
そうだよね。そうなるよね。
しかしイスラームの論理では、アッラーの慈悲によりこのクソゲーのような世界が創造されたのであり、救済もまたアッラーの慈悲によってのみなされるのである。
救済はひとえにアッラーの慈悲による。 しかしそれだけにはとどまらない。
「万事はアッラーの慈悲によるのである。」イスラームにおいて、アッラーの慈悲は、救済論のみならず宇宙論にも中心的位置を占める。
イブン・アラビーが世界の創造の原理を「慈愛の息吹」と呼んだことは既に触れた。自足的超越的絶対者たるアッラーが、この移ろいゆく儚き現象界を創造したこと自体が、その無償、無限の慈悲、慈愛の賜物に他ならないのである。 189頁
ぼくはこのようなイスラームの宇宙観が好きだ。
人間はなにもできない、すべてアッラーの慈悲によるという根本的な発想が好きだ。
「神というのはクソ野郎なんだね」と言った友人はたぶんわかってくれないだろうと思う。
これは優劣ではなくて、やはり資質が違うんだろう。
絶対的、超越的、究極的な一者、創造主を欲するかそうでないかという違いが根本にあるように思う。
世界というのはクソゲーみたいなもので神はクソ野郎だということは、いえばいえるわけだけれど、ぼくの感覚ではそれもしょせんは人間がそう感じるというだけで、神からすればどうでもいいというか、神の意図は人間が知りうるものではない。
世界はクソゲーだと感じる、そのような人間の感覚で世界をとらえるということが、人間への執着であるように思う。
人間世界に執着してゐれば、世界はクソゲーであるという考えに当然なる。しかし、神のほうを向き、神に服従し、神を讃えるという道を歩むならば、世界がクソか素晴らしいかという人間的な理解とは別の世界がひらけてくるのではないだろうか。
もちろん、社会の不正や不公平は問題で、正義を実現することは大事なのだけれども。