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『危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて』若松英輔 山本芳久

危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて

若松英輔 山本芳久 文春新書 2021

「すでに」と「まだ」の緊張関係

ローマ帝国において当初迫害されてゐたキリスト教が徐々に拡がり、やがて国教化されるに至った、その背景には疫病との関係があった。愛と奉仕というキリスト教の価値観は社会奉仕と連帯を生む。少しの助け合いがあるだけで生存率は向上する。それゆえ異教徒に比べてキリスト教徒の生存率は高くなる。疫病のたびにキリスト教徒は人口に占める比率を増やした。

山本 (・・・)それがまさに「愛」ということですよね。困っている人に愛の奉仕をするというキリスト教の根本精神。その背後にあるのは、この世の命がすべてではないという発想です。しかしだからといって、「天国において初めて本当の人生が始まるのだから、現世なんてどうでもいい」となるのではなく、天国の存在に対する強い確信をもっていたからこそ、現世において天国を生き始めるというか、天国につながる愛の奉仕をするわけです。天国というのは愛が支配している場所であるわけですから。

 聖書学では、「すでに」と「まだ」の緊張関係がよく言われます。「神の国」はイエスの活動を通じてすでに来ている、でもそれはまだ完成していない、という。ではどういう仕方で完成するのかといえば、愛のつながりを通じて完成していく、と捉えるわけですね。 44頁

知ることの喜び

アリストテレストマス・アクィナスは共鳴する。ともに人間が自分を超えた神のことを深く探求していくことの重要性について語ってゐる。それは喜びである。

山本 (・・・)そして、「神」について知るということを考えるとき、トマスの場合、「喜び」というものが軸になっているのがとても重要なことなんです。アリストテレスの『形而上学』も「知ることの喜び」という話から始まるわけですが、何か抽象的な知識を求めるとか、キリスト教を正当化しようということだけでなく、人間の心を満足させる、人間をはるかに変えた高い事柄、「神」と呼ばれるような事柄について少しでも知ることができれば、とても大きな喜びにつながるのだと。それが、少なくともトマスの場合に大きな軸になっていることは重要な点だと思います。

若松 「喜び」はとても重要な問題ですね。自分の欲しいものが手に入ったという喜びとは、まったく次元を異にする「よろこび」。私も先ほど、ある知ともう一つの別の「知」という話をしましたけれども、ある意味においては、私たちが日頃考えてもみないような「よろこび」が、神学的次元において用意されている、私たちを待っているのかもしれない。そうした期待というか予感があります。 78頁

観想ということ

十字架の聖ヨハネ(1542~91)は瞑想(meditation)と観想(contemplation)を区別する。瞑想は何かをイメージすること、観想は神のただなかにわが身を置いてみること。

若松 「観」は、人生観という言葉に表現されているように、見るということではなくて、見えつつあるということです。現代では「見た」とか「見る」とか、時間軸の短いことに慣れているんだけれども、神学的次元というのは、見えつつあるという、持続的な営為としての「観る」という行為の上に成り立つともいえるのではないでしょうか。

 今のこの短くない危機の時代の中で、さまざまなものが瞬間的、あるいは短期的に見えて分かるというのではなく、緩やかに見えつつあるありようを、私たちはもう一度受け入れ直す必要があるのではないか。さらにいえば、多くのことをはっきりと見通せないことを前提に言葉を発していくことも求められてくる。そして、そうしたときの発言は、結果を云々するのではなく、その本質を問うことになるのだと思います。対象の being を「見る」だけでなく、becoming を「観る」視座が必要なのです。 156-157頁

解釈について

「大衆の反逆」で有名なスペインの哲学者オルテガは、「ガリレオをめぐって」という著作において、危機と人間の生について論じてゐる。生は根本的に不確かなものである。なんとか溺れないように泳ぎ続けなくてはならない、人生とはついぞ難波者として生きることだ。生を確実なものとするために、世界はこのようなものであると一応の解釈を与えてゐるけれども、いつ脅かされるかわからない。

山本 (・・・)私たちの生がその根底においてこのように不安定なものだからこそ、「危機」というものも生まれてくるのだとオルテガは捉えているのです。

 

 混乱はどんな危機の時代にもつきものです。なぜなら、結局のところ《危機》と言われるものは人間があるものを基礎とし、それらを拠り所として生きることから、今度は他のものに拠りかかって生きようとすることへの移行にほかならないからです。ですからこの移行は二つのきびしい操作から成り立っています。ひとつは、私たちの生を養ってきた世界から離れることでありーー私たちの生はつねにひとつの世界解釈によって生きていることを忘れないでくださいーー、もうひとつは、その精神に新しい世界にしがみつく備えをさせること、つまり別の生のパースペクティブに慣れさせること、別のものを見ることに慣れさせ、それらに即する備えをさせることであります。(同前)

 

 気づいたら溺れかけているわけですから、世界や隣人、自分についてとりあえず解釈をして生きていくしかない。普段はそれで何とかなっているけれども、この世界のさまざまな急激な動きなどで、これまでの解釈ではやっていけなくなってしまうときがくるーーまさに私たちが、この二年間置かれてきた状況ですよね。これまで「解釈」だとも思わず、それが「現実そのもの」だと思っていたような既存の理解の仕方では毎日の生活が成り立っていかない。でも、世界全体を解釈し直す新たなやり方も、はっきりとは見えてこない。そういう宙ぶらりんの状態こそがまさに危機だとオルテガは捉えているのです。

若松 いまお話いただいた意味で、世界を「解釈」するには、ある種の勇気が必要ですね。解釈を間違えるかもしれないし、自分の生き方そのものを自分で思わぬ方向へ変えてしまうかもしれない。また、その解釈ゆえに孤立することもある。だから、解釈しないという生き方もあると思うのですね。解釈しているようで、誰かの解釈を鵜呑みにしていることも現代では少なくない。こうした現象をめぐってオルテガはどのように考えているのですか。

山本 オルテガ的に言えば、解釈を拒む場合でさえ、結局は出来あいの世の中の通念にしたがって世界を理解している。つまり、既存の解釈に半ば無意識的に依拠しながら生きている。だからこそ、曲がりなりにも対応していけているという話になるでしょうね。

若松 対応はできる。しかし、その結果たどり着くところが問題になる。たとえばファシズムがどういう思想かを分からないままで身をゆだねてしまうこともあります。

山本 まさに大衆論というのはそういう話ですね。 208-210頁