手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「太平洋戦争への道 1931-1941」 半藤一利、加藤陽子、保阪正康

太平洋戦争への道 1931-1941

半藤一利加藤陽子保阪正康 NHK出版 2021

第一章 関東軍の暴走

1929年 世界恐慌:経済が低迷、農村は困窮。「生命線」である満州の確保へ。

1931年 満州事変関東軍が柳条湖で鉄道を爆破、これを中国軍によるものとして攻撃開始、満州全域を制圧、傀儡国家樹立。

加藤 では、次に「なぜ関東軍による独走、独断」が許されてしまったのか」について。

 当時、大日本帝国の出先軍、現地軍というと、朝鮮軍二個師団がいて、中国には関東軍がいました。外地ですので、中央からの制御ができにくい。天皇の命令を現地軍に伝える奉勅命令というものがありますが、これで現地軍をとめるというのも、なかなか政党内閣ではやりにくかったと思いますね。

半藤 中央部、つまり、政府ばかりでなく、東京の陸軍参謀本部が不拡大という指示を出しています。しかしながら、関東軍はそれを聞かなかった。ということは、これは統帥権干犯にあたりますから、本来は違反行為です。軍法で言えば、とんでもないことをやっている。

 ところが、ソ連がこうした関東軍の動きに干渉してこないとわかった瞬間に、参謀本部がやめろというのを、参謀総長は「は、承りました」と言っておきながら、参謀総長から参謀へ、さらには参謀から関東軍の参謀へ、「おい、おまえたち、いい加減にしろ」というようなことをただ口で言うだけで、後半はずるずると一緒に乗っかってしまっています。ですからこれは独断を許したというよりも・・・・・。

加藤 陸軍中央も乗ってしまったわけですね。

半藤 このチャンスに、満州国の権益をできるかぎり広げようとして動いたと見ざるをえないと思いますね。そういう意味では、まさに「侵略」であったと言えると思います。昭和天皇は、統帥権をもっている大元帥として、これは侵略であるから止めろと明らかに言っています。参謀総長はそれを承っている。だから、本当は統帥権の干犯なんです。 47-48頁

第二章 国際協調の放棄

1931年 リットン報告書満州事変の調査報告書。満州国民族自決の結果誕生したものであるとする日本側の論理を否定。しかし、満州における日本の権益に厚く配慮したものでもあった。日本の新聞は中国側に有利な内容だったとして国民の反撥を煽る。満州国の存在を否定して侵略者扱いするとはなにごとだ、という気分が醸成される。

1933年 熱河事件国際連盟満州をめぐる問題が議論されてゐる最中、関東軍中国東北部熱河省へ侵攻する。日本側の論理では「満州国はすでに成立してゐる」ので、「満州国内の軍事行動」ということになる。ところが国際社会からみれば「新たな紛争」であるから重い措置を取らざるをえない。

国際連盟脱退国際連盟の総会で、満州国を認めず日本軍の撤退を勧告する決議案が採択される。外務大臣松岡洋右は、「日本は断じてこの勧告の受諾を拒否する」と宣言して、議場を退出。

加藤 国際連盟を脱退するという日本の行動は、世界や日本にどのような影響を与えたでしょうか。

保阪 結局この脱退というのは、言葉は少しきついけれど、外交関係やさまざまな政治的関係においては、ある種の鎖国状態に入ることを意味していたと思います。国際連盟という場を持っていれば、日本は五大国の一つとしていろんな意見を言えますし、国際的な意思表示もできるわけです。それを脱退するということは、国際的な発言の場をみずから拒否してしまったことになります。もし日本の考え方を聞きたいのならば、東京へ来て話を聞けというふうになりますから。

加藤 そうですね。

保阪 外国のメディアは東京へわざわざ来ませんよね。そうすると、中国との関係で見ると一番わかりやすいですが、中国のプロパガンダが一方的に国際社会の中で大きな力や意味を持つようになってしまいます。日本はそれについて、ほとんど国際的な発信ができなくなる、つまり、孤立するということです。 81頁

半藤 このときの内閣は、どちらからというと穏健派の斎藤実内閣ですから、国連を脱退する意思はなかったと思います。

加藤 斎藤自身はですね。

半藤 ええ。脱退を強く主張したのは、むしろ新聞です。新聞がものすごい勢いで脱退をぶち上げた。もう脱退せよ一辺倒で、全国百三十紙以上の新聞が、一致して脱退勧告をしている状態です。「内閣は何をしているのか。これだけ世論が脱退で盛り上がっているのだから、脱退こそが大日本帝国の正しい道である」というように、あれだけ煽られてしまったでは、斎藤内閣はどうにもならないぐらいに参ってしまったと思います。 83頁

第三章 言論・思想の統制

1932年 五・一五事件:海軍青年将校の一団が総理大臣官邸を襲撃し、犬養毅総理大臣を暗殺。日本が国際社会に侮られてゐるという被害者意識が背景にある。どうしてこんな状態になるのか、それは天皇を周辺で支える支配層に問題があるからだ、という論理。これが「国士による愛国的な義挙」として理解され、テロリズムが公認されるようになる。

1933年 小林多喜二の拷問死共産党員でありプロレタリア文学の旗手、「蟹工船」の作者である小林多喜二特別高等警察の拷問により死亡。治安維持法に基づく反政府的な言論への弾圧、思想統制が強まる。

1936年 二・二六事件:陸軍の青年将校たちが「国家改造」を目指し、約1500人の兵士を率いて総理大臣官邸や警視庁などを襲撃、国会周辺を占拠。大蔵大臣、内大臣教育総監など9人が殺害される。反乱に対して一貫して厳しい態度をとった天皇の意向により4日後に鎮圧。

保阪 昭和八年、一九三三年というのは、歴史の中で日本が実は大きく変わった年ですね。小林多喜二の拷問での殺害事件、それから共産党員の転向などもこの年からです。

加藤 一斉転向ですね。

保阪 共産主義が全面的に国家の論理によって排除されたということですね。この年の第四期国定教科書改訂からは、陸軍省が参加しています。(・・・)

 それから学問に目を向ければ、京都大学の滝川事件も重要です。さらに陸軍に設けられた新聞班が、メディアに対する規制を強める通達を出すのも、この年からかなり頻度が高くなっていきます。ですから、日本の「昭和ファシズム化」という言葉を使うならば、それが一番顕著に加速する年というのは、昭和八年、一九三三年だと言えると思います。

半藤 治安維持法というのは、大正時代にできて、一九二八年に改定されています。この時から、どんどん拡大解釈がなされて、一般国民の生活にまで響いてきた。その象徴的なのが小林多喜二の虐殺ということですが、ほかにもたくさんの事例があります。

加藤 そうですね。一九三三年、昭和八年が、まさにターニングポイントだったわけですね。

半藤 昭和という時代が悪化していく、そのスタート地点だったと思いますね。 102-103頁

保阪 二・二六事件について私が注目するのは、やはり「暴力の恐怖」ですね。とくに、議会ではこの二・二六事件以後、本来行うべき活発な議論が委縮していきます。しかも、この後、軍は親軍派の議員をつくり、議会は見事なほど軍寄りになっていく。つまり、議会政治が骨抜きになる。これも、二・二六事件の残した大きな特徴だという気がします。

半藤 あえて言えば、これ以降の日本に大きな影響を与えたのは、この二・二六事件がもたらした「暴力の恐怖」というやつですね。「私はいいですよ、だけども下のほうがどう思うかですかね」というような言葉によって、政治指導者が、軍に脅かされていくのです。

加藤 暴力を背景にした圧力ですね。

半藤 テロの恐怖は、人々を萎縮させます。しかも、軍隊の持っているテロの恐怖というものは、「軍隊からの安全」を完全に失わせてしまう。結局、軍は太平洋戦争が終わるまで、この恐怖がもたらす力を、存分に使いました。

加藤 なるほど。本来は国民を守るはず、国家を守るはずの軍隊が、国民の安全を逆に脅かす存在として機能する。それは、とても大きいですね。

半藤 とても大きいことだと思いますね。

加藤 二・二六事件の結果、昭和天皇の周りを固める人間は、近衛文麿木戸幸一などの若い世代になります。その前は、たとえば高橋是清であるとか、井上準之助であるとか、そういう方がいた。それが血盟団事件で殺され、二・二六事件で殺され、実体経済の観点から国際協調の重要性を指摘できる人がいなくなってしまった。

 国際協調路線を進んでいた一九二〇年代は、日本は基本的に対外輸出の半分以上が工業製品という、立派な工業国なのです。そうした路線がいつしか忘れられていってしまったのではないか。天皇にそれを思い出させてアドバイスをできる人がいなくなってしまった。その人的損失は、想像以上に大きかったのではないかと思います。 109-111頁

第四章 中国侵攻の拡大

1937年 盧溝橋事件、日中戦争始まる:7月7日、北京郊外の盧溝橋での武力衝突をきっかけに日中の全面戦争が始まる。ドイツが仲介に入り「トラウトマン工作」と言われる和平交渉が進んでゐたが、その最中に陸軍が南京に侵攻し陥落させてしまう。これにより和平交渉は頓挫。1938年1月、近衛文麿は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」と声明。蒋介石は首都を重慶に移し、中国共産党とも連携し、ソ連、イギリス、アメリカの援助を受けながら抗日戦線を維持する。

1938年 国家総動員法成立:長引く日中戦争のために労働力や物資の統制を、国会審議を経ずに実施できるようにした。国家の財政と家計における「公的領域」「私的領域」の区別がなくなっていく「戦時体制」が確立。

1940年 大政翼賛会結成:すべての政党が解党されてこれに参加。政府が決めたことを町内会や隣組という組織を使って国民に行き渡らせていく指導機関。

加藤 なぜ、この中国との戦争は泥沼化したのかについて、改めて考えたいと思います。

保阪 日中戦争については、戦争の大義と言いますか、名分が探しようがないんです。どう考えても大義はない。当時の人もいろいろ考えてはいたようです。軍人たちがこの戦争に思想的意味を持たそうとしていたように思いますが、結局は明確なものは打ち出せなかった。

 一九九二年(平成四年)から九三年ごろ、私は台北に何度か行って、蒋介石の右腕だった陳立夫や、蒋介石の次男の蔣緯国という人に会って話を聞いたことがあります。

 これはとくに蔣緯国が言っていたことですが、古来、どんな強い軍隊でも、ナポレオンでもフビライでも、ひとたび軍を動かすと、直線的に進んでいくという心理があり、そうすると最後は、断崖にまで突き進んで、そこから落ちてしまう。自分たちが目論んだのは、まさにその心理を利用することであり、我々はとにかく日本軍を中国の奥地まで引き入れて兵站を切り、孤立した日本軍の部隊を次々と殲滅していくという戦略を考えていたというのです。

 そして、「しかし」と彼は話を続け、「いくら軍にそういう性質があるにしても。なぜ日本軍は中国のこんなに奥深くまで入ってきて戦争をするのか、自分には理解できないのだが、君はわかるか」と逆に聞かれました。

 私もわからないから、こうして話を聞きに来ているのだと答えたら、彼は、「日本の軍人は単純に言えば歴史観がないのだろう」と言う。なぜ中国と戦っているのか、なぜ中国に攻め入るのか、それを決めるのが歴史観だが、それが日本軍にはないのだろう。軍の論理でしか物事を考えないから、最後は軍事の限界にぶち当たって勝手に潰れていくのはわかっていたことだーーと言われたんです。これは、なるほどと思いましたね。 130-131頁

半藤 (・・・)本当は和平のチャンスはあったんですよ。それなのに、日本軍は、そして日本政府は南京攻略戦を始めて、みずから泥沼の戦争へと突っ込んでいってしまったというのが、歴史的事実だと思います。

加藤 「国家改造」というものを考える人たち、自由主義・資本主義はすでに古いと考える反資本主義的な考え方の人たちが官僚や軍の中にはいて、力を持ち始めていました。いわゆる革新派の官僚ですが、彼らは日中戦争のとらえ方も少し違うんですね。日中戦争は宣戦布告することなく、不意に武力対立が起きて戦争が始まった。こうした事態に対して、彼らは彼らなりにこの戦争の「理論化」をしようとします。

 今、日本が中国とやっているのは、宣戦布告していないことでわかるように戦争ではない。中国は、日本がイギリスやアメリカのような資本主義国を代弁していることに気づかず、日本に対して無駄な攻撃、反撃を行っている。つまり、これは一種の内乱、国際共同体に対する内乱にほかならない。だから日本はそれを鎮圧しているのだーーという論理です。

 すると、一九三八年(昭和一三年)当時、日本軍に反撃しているのは中国ではなく、匪賊ということになる。日本と中国が国家間の本当の話を始めようとしているのに、言うことをきかない匪賊が反撃しているというわけです。

 現在からみれば、背景の説明を要する不思議な考え方ですが、こうした認識のズレが招いた状況を違う角度から見ると、「泥沼化」ということになるかもしれないと思います。当時の日本では、なぜ中国がこれほど反撃するのかわからないという人が多かったのではないでしょうか。

保阪 日中戦争について、なぜそういう論理を持ったのか、今でも明確にはわからないですよね。

加藤 そうなんです。アメリカが二〇〇三年(平成一五年)にイラク戦争を始めたとき、私たちはギョッとしたはずです。アメリカとイラクが戦線布告をして戦うのではなく、イラクがやっていることは、世界に対する内乱であり、テロである。だからアメリカは世界の警察官として、テロを行う犯罪国家を攻撃し、共謀罪を犯している人々を襲いに行くーーそんなイメージで戦争が始まりました。

 日中戦争というのは、もしかすると二十一世紀的な戦争を先取りしていたのかもしれません。だからこそ八十年経っても、日米戦争はわかるけれども日中戦争はいったいなんだったのだろうと、半藤さんも保阪さんも定義を付けづらい戦争なのではないか。その戦争のある種の思想的なバックボーンについて、少し申し上げてみました。 134-136頁

第五章 三国同盟の締結

1939年 第二次世界大戦勃発ヒトラー率いるドイツがポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が始まる。ドイツはオランダとベルギーを占領し、フランスのパリも無血で占領する。

1940年 日独伊三国同盟締結:ドイツは日本と同盟を結ぶことでソ連を、そしてアメリカを牽制したかった。日本は国際連盟を脱退して孤立した状態、どこかと手を結びたい。また、長期化する日中戦争を終らせるためには、イギリス・アメリカの蔣介石への援助を断ち切らねばならない。イギリス・アメリカとの戦争を覚悟するほかない。泥沼の日中戦争の帰結である。近衛文麿内閣は「東亜新秩序」の建設を目指すためとして、ドイツとの同盟に踏み切った。

加藤 端的に言いまして、日独伊三国軍事同盟を日本が締結した目的は、別のところにあります。

 一九四〇年六月にフランスがドイツに降伏しますが、そうなると、第二次世界大戦でドイツを相手に戦っている国はイギリスしかありません。ということは、そのまま終戦になるのではないかという見通しもありましたから、終戦になったときには、東南アジアに植民地を持っている宗主国ーーイギリスがその最たるものですがーー、フランスやオランダも含めて、植民地の主がいなくなってしまう。となれば、戦勝国であるドイツがすべてかっさらっていってしまうかもしれない。日本はドイツと防共協定(日独防共協定)を結んでいましたが、それだけではもったいない。軍事同盟にしておいて、講和会議に日本も戦勝国として参加しようーーそういう狙いがあったのです。

 日独伊三国軍事同盟には、たしかに日本がドイツに騙された、ドイツとイタリアに都合のよい同盟を結ばされたという側面も、もちろんあるかもしれません。しかし一方で、ドイツが軍事力で負かしたフランスなりオランダなり、そういう国が持っていた東南アジアという植民地の分け前を講和会議でもらおうという、ある種のしたたかな論理が、日本にはあったと思います。

半藤 一九三九年(昭和十四年)、アメリカが日米通商航海条約という、明治以来、続いてきた日本との貿易の条約を破棄、廃棄すると通告してきます。そして翌四〇年の初めに、それが成立する。アメリカと本当に貿易ができなくなると、これは大問題です。とくに海軍は、アメリカから石油が輸入できなくなるとどうしようもなくなります。

 もしそういう事態が起きたときは、どうしたらいいのかというのが最後の悩みでしたから、そこで目をつけたのが蘭印と仏印、今のインドネシアベトナムの石油地帯です。簡単に言えば、スマトラとかボルネオ、インドネシア半島あたりの石油を手に入れたほうがいいと考えた。ヨーロッパ戦争で、そのあたりの国を支配しているフランスもオランダも、ドイツに降伏していますから、ちょうど空き家です。ならば、それを手に入れたいと海軍は思うわけですが、もちろん、そこで手を出せば、アメリカは黙っていない。では、黙らせるにはどうすればいいか。ドイツ・イタリアと同盟を結び、さらにソ連も仲間に入れて四国同盟まで持っていくことに成功すれば、アメリカはまさか手を出してこないだろう。それぐらいの準備をしておけば、アメリカは貿易条約を廃棄してきたけれど、また元へ戻るのではないかーー。このように、まったく自分本位で虫のいいことを、日本の指導者は考えたというわけです。 160-162頁

半藤 日独伊三国同盟が結ばれたときの日本人の熱狂ぶりは、本当に現在では想像もつかないぐらいのものでしたね。

加藤 そうですね。

半藤 新しい時代の同盟ができたということで、大盛り上がりになってしまう。つまり、そんなことはあり得ないと思いますが、ドイツがヨーロッパを征服して、ヨーロッパ新秩序をつくる。日本はドイツの留守の東南アジアを征服して、日本を盟主とする東亜新秩序をつくる。そしてアメリカは、アジアから手を引いてアメリカだけの秩序をつくり、ソ連ソ連で秩序をつくる。だから、世界の新しい秩序が四つになって、めでたく平和な世界が来るーーと。そんなことを本気で考えたのかと言いたいところですが、当時の多くの日本人は、本当に大真面目に考えたみたいです。

加藤 「三国軍事同盟締結は何をもたらしたのか」という結論についてはどうでしょうか。

半藤 端的に言えば、アメリカを戦争に参加させるための「証文」をつくってしまったようなものです。アメリカ人は、中立法を守って、できるだけヨーロッパ戦争に参加しないという世論がものすごく強かったのですが、三国同盟以後は、アメリカ人もナーバスになり、日本を敵視するようになります。もちろん敵視する風潮自体はそれ以前からありましたが、それでも、やはりアメリカはヨーロッパ戦争には参加しないというのが基本だった。しかしこの三国同盟以後、アメリカの世論は日本にかなり厳しく当たるようになってきます。

 だから三国同盟は、一言で言えば、アメリカを戦争に促したと言っていいでしょう。そして、日本はこのときにノー・リターン・ポイントを超えたのです。もはや戻れないところに、その先の一歩に進み出してしまったと、私は思います。 164-166頁

第六章 日米交渉の失敗

1941年 野村・ハル会談、真珠湾攻撃:日独伊三国同盟を締結した翌年の1941年、日米開戦を回避するための、あるいは開戦を遅らせるための交渉が始まる。日本側の代表は駐米日本大使の野村吉三郎、アメリカ側の代表は国務長官コーデル・ハル。交渉の最中の7月、日本軍はフランス領インドシナに進駐する。これがアメリカの激しい反撥を招き、アメリカは在米の日本資産を凍結、日本への石油輸出禁止を決定。

11月26日、アメリカ側の要求を記した「ハル・ノート」が提示される。中国やフランス領インドシナからの全面撤退、三国同盟の実質的な廃棄などが含まれてゐた。これを受け入れればアメリカと新たな関係を築くことができる。が、権益を守りたい日本からするとあまりに厳しい内容だった。

アメリカとしては、これで日本を追い込み、日本に一発叩かせて、それを利用に参戦したいという腹もあった。ヨーロッパでドイツ相手に苦戦を強いられてゐる連合軍を支援する機会を狙ってゐたのだ。

日本政府はハル・ノートを事実上の最後通牒と受けとめ、12月1日の御前会議で、日米交渉の打ち切りとアメリカ・イギリスとの開戦を決定。12月8日、真珠湾アメリカ軍基地への奇襲攻撃を行い、アメリカをはじめとする連合国との戦争に突入した。

半藤 そこで御前会議を行い、その前には陸海軍も会議を開き、何度もこの議論をしています。南部仏印に出て行かなければ間に合わない。出て行けば戦争になる。戦争になると間に合わないから先に出て行ったほうがいいーーと。それなのに、変な話ですけれども、アメリカは出てこないと思うという意見が通ってしまうんです。

加藤 あくまでも、出てこないと「思う」と。

保阪 一九四一年(昭和一六年)六月の独ソ戦のあと、日本はどういう戦略を立てるかが議論されます。そのとき、ドイツと一緒にソ連を挟み撃ちにするという意見と、この際、南のほうに出て行って、石油資源を確保すべきだという意見がぶつかり合って、その妥協点として「関東軍特殊演習」が行われ、一方で南部仏印には大量の兵を動かして入っていく。この中途半端な政策に、日本の曖昧さが出ていると思います。

 日本が南部仏印に出れば、アメリカが出てくるかどうか。この点は大本営政府連絡会議でも話題になりますが、日本が本気で南部仏印に出ていったら、アメリカは戦争覚悟で日本に対して禁輸措置をとらなければならないから、そこまではしないだろうという意見が上回る。それで、南部仏印に出ていくんですね。

 そのプロセスを見ると、なんと甘いんだろうと。そして、なんと願望を客観的事実にすりかえようと必死なんだろうと、感じざるを得ません。もっと具体的に、アメリカの戦略、アメリカの怒り、南部仏印に対してアメリカがどういう思いを抱いているかということを検証する必要がある。しかし、それをやっていないように思います。

 南部仏印進駐の国策を決めるのに、「国策要綱」の字句はかなりいじっています。いろいろな字句をひねり出しながら、結局、「対英米戦を辞せず」といったかたちの字句が初めて入りますね。

 そういうプロセスを見ると、戦略がないまま、その場その場の選択が狭まっていくのがわかります。そして、その決定にいたる理由というのは、ほとんどが主観的願望であって、それを客観的事実にすりかえようとするのですが、実際には、むしろ事実と結果は逆に出てくるわけです。 184-186頁

半藤 端的に言えば、ハル・ノートの要求を飲んで中国や南部仏印から撤兵すればよかったんです。ただし、撤兵というのは非常に手間がかかって難しいですから、のろのろやればよかったんです。すると、のろのろやっているうちにひと月もふた月も経って、やがてドイツが負けるのが見えてきた。そうなると、日本がアメリカと戦争する必要はもうないーー・いや、その手は確かにあったんですよ。そういう主張をした人もいたみたいです。 192頁

保阪 (・・・)個人的に言えば、私は、実はこの戦争を全部否定しているわけではありません。たとえば開戦詔書の下書きには、我々の国は弱いけれども、一六世紀以来の西欧列強の植民地政策に対して、何らかのかたちで異議申し立てをしたいという、人類史に残るような一文が入っていて、その点は納得できます。その下書きを書いたのは、陸軍省軍務課の高級議員で石井秋穗さんという方ですが、私はわりと親しかったので、どうしてそれを実際の詔書には書かなかったんですかと聞いたら、「日本には他国の独立を助けるなんて、そんな余裕はないよ」と。でも、それが開戦の目的として入れてあったならば、私たちの次の世代も納得できる部分があったのではないですかと言ったら「そう言われればそうだな」と、そんな話をしたことがあります。

 この開戦詔書の内容が象徴的ですが、私たちの国が日米開戦へ行きつくまでの政策の基本的なプログラムには、大局的な歴史観が残念ながら欠落していました。それは、軍事主導の政策決定がもたらした、最大の欠点だと思います。私はそれを非常に残念に思うし、それを教訓として学ばなくてはいけないというのが、率直な気持ちですね。 194-195頁