手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「井筒俊彦 叡智の哲学」若松英輔

井筒俊彦 叡智の哲学若松英輔 2011 慶応義塾大学出版

この本を読んで、井筒俊彦の「意識と本質」を読もうと決めた。

「意識と本質」は、長いこと、読もう読もうと思い、積読になってゐた。

今がまさに読むべきときと確信した。

若松さんのこの力作評論を読んで、準備が整ったと思う。

ウイルス感染の広がりにより仕事が休業となり、自己隔離中の身。

時間はたっぷりある。ゆっくりと読んでいきたい。きっと素晴らしい体験になる。

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井筒俊彦は30を超える言語を理解し、気になる本はすべて原書で読んだとか。スゴすぎてよくわかんないです。

以下、ノートをば。

 「バフルンヌーン物語」に出てくる青木辰夫のモデルは井筒俊彦である。ムーサーが日本を後にして、しばらく経った頃、外務省の役人が青木にムーサーの言葉を伝えた。「日本には自分の弟子がただ一人いる、青木辰夫を知っているか?」ムーサーからの伝言を聞き、青木は「快速で帆走ってきたような青年時代を」思い起こしながら眼を潤ませ、耳には再び、ムーサーのアラビア語を聞く。「植えられた場所で朽木になるような生涯はつまらないよ、タツオ」

 世界は絶対者の栄光に満ちている。神の創造の多様性をこの眼に目撃し、それを崇め、保持し、伝えてゆくこと、その世界観はイスラームに通底する不文律でもある。イブラヒム、ムーサーが生涯を旅に終えたのはそのためだった。永遠が存在するなら、人間はいつでも、その根源的生命に直接触れることができる。イブラヒム、ムーサーはそれを体現していたのである。

 こうして井筒俊彦は、イスラームと邂逅した。 77頁

「植えられた場所で朽木になるような生涯はつまらないよ」

「永遠が存在するなら、人間はいつでも、その根源的生命に直接触れることができる。」

いいな。浪漫だ。こういう文章に触れると、自分も異国に旅立ちたいという気持ちになる。インド、韓国、アメリカ、トルコ、中国・・・あちこち行きたいな。

 私たちは対話の彼方に何かを発見できると信じ、対話を繰り返してきた。しかし、未曽有の混迷を打破する何もかが生まれるとすれば、それは「対話の彼方」ではなく、「彼方での対話」によってではないのか。その対話が実現する場を準備するのは哲学に課せられた責務であり、使命だと井筒は考えている。

 

 歴史の彼方での対話を方法論的に準備できれば、徐々にではあっても、字義通り十全な意味における〈久遠の哲学〉philosophia perennis に結実すると私は信じている。時や場所、国を問わず、人間精神を哲学へと駆り立てるものは根源的に究極的に一なるものだからである。(Sufisum and Taoism. 同書からの引用は全て筆写による抄訳である)

 

 ここで井筒がいう「哲学」とは、原意における「形而上学」だと思ってよい。真実の「形而上」学とは、「形而下」の現実、すなわち歴史から遊離したところで営まれるのではなく、次代の火急的命題に直接的に参与するかたちで行われなくてはならない。哲学は、文字通り原理的参与を求められているというのである。 278頁

対話をするほど分断が深まって話が通じないようになってしまった今の時代、これまでとは違ったかたちでの対話、ここで書かれてゐるような「彼方での対話」を模索することが必要なのではあるまいか。などと感じた。

 一九五四年八月十八日、八十四歳の鈴木大拙を囲んで、アンリ・コルバンミルチャ・エリアーデ、オルガ・フレーベ=カプテインが座っていた。三人は、東洋から来た老人が、五十年以上前にスウェーデンポリの著作を翻訳したと聞き、驚く。

 コルバン大拙大乗仏教スウェーデンポリ神学における構造的ホモロジー、すなわち構造的相同性について質問する。すでに翁の風貌を備えていた八十四歳の大拙は、突然手に一本のスプーンを持ち、突き出し、微笑みながらいった。「このスプーンは天界においてもそのまま存在する・・・だから私たちもまた、今、天界にいる」。忘れ得ない出来事だった、イブン・アラビーがこの言葉を聞いたら喜んだに違いないとコルバンは彼の主著に書いている。彼にとってイブン・アラビーは叡智の別名、別格の存在だった。最高級の賛辞だと思ってよい。 316頁 

「このスプーンは天界においてもそのまま存在する・・・だから私たちもまた、今、天界にいる」

佳話っていうのかしら。すてきだ。この言葉は確かに忘れ得ない。

世界は意味分節によって現起する。あらゆる事象事物は人間の主体的な意味分節の具体的な現れである。(『意味の構造』)

 

 最晩年、『意味の構造』改訂のときに書かれた一節である。井筒俊彦の哲学が凝縮されているといってよい。現象界における「文化」は非超越的である。表層的にはそれはあくまでも現象に過ぎない。しかし、その奥では、現象を「現起」させている「意味」がうごめいている。私たちが読み取るべきは、叡智界の出来事ではなく、現象界における「現実」とそこに秘められた意味である。叡智界を論じることは可能かもしれない。しかし、人間が生きるのは、叡智界ではなく、現象界である、いかなる理由があっても哲学はこの世界の現実から遊離してはならないと井筒は信じている。

ここは大事だなあ。

人間が生きるのは、叡智界ではなく、現象界である。しかし現象界の奥にある意味を読み取らなければならない。叡智界と現象界との往還のようなものが必要ということかな。

叡智界ばかりに気をとられて、ちょっと触れたばかりにすべてを悟ったような顔をする「スピリチュアル」な人が、ぼくはとっても苦手・・・すみません。