手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「バカの壁」養老孟司

バカの壁養老孟司 2003 新潮新書

これが大変おもしろかった。

今年の講演、御年81歳、まことに壮健なことで嬉しい限りです。

話は面白いし、語り口はおだやかで、声がとっても暖かくてやさしい。

人柄が出てるなあ。

すごく癒された。

久しぶりに養老先生の本を読みたくなって「バカの壁」を再読。

2003年に発売されて400万部売れた本。

当時高校生だったぼくは書店で平積みになってゐるのを見かけて、すぐに買って読んだ。

なつかしい記憶だ。

話しことばで書かれてゐるけれど、「唯脳論」の著者が話すことであるから、なかなか高度に抽象的なことが書かれてある。

バカの壁」とは何か。

結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。 4頁

どういうことだろう。

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上掲の動画から。

養老先生によれば脳というのは計算機である。

単なる入出力装置であって、その仕組みはy=axというシンプルな一次方程式をモデルとして考えることができる。

xは入力である。

yは出力である。

aは「現実の重み」である。

どんな入力があっても、a=ゼロであれば出力はゼロになる。

たとえばオヤジの説教を聞いてゐるときの子供など。

この場合、ふんふん相槌を打って聞いてゐても、子供の脳はa=ゼロに設定してゐるので出力もゼロになる。

行動には反映されない。

つまりa=ゼロというのは自分が知りたくないことについて自主的に情報を遮断してしまってゐる状態で、これを指して「バカの壁」という。

a=ゼロの逆は、a=無限大である。

a=無限大の代表例は原理主義で、この場合、ある情報、信条がその人にとって絶対的なものになる。

 基本的に世の中で求められている社会性というのは、できるだけ多くの刺激に対して適切なaの係数を持っていることだといえる。 30頁

昔の人は入力のことを「文」といい、出力のことを「武」と言った。

文武両道。

「学ぶ」というのはこの「文」と「武」とを自分で繰り返すことである。

片方だけではいけない。

そこで知行合一というのが出てくる。

 江戸時代は、脳中心の都市社会という点で非常に現在に似ています。江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かと言えば、「知行合一」。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。

 しかしこれは、「知ったことが出力されないと意味が無い」という意味だと思います。これが「文武両道」の本当に意味ではないか。文と武というものが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。 94-95頁

 「脳中心の都市社会」とは意識中心、情報中心の社会ということである。

都市には脳が生み出したものしか存在しない。

われわれは脳の中で生きてゐる。

このような意識中心の社会においては、自分自身が「情報」と化してしまった状態となる。

そこで困ったことが起こる。

「変わるもの」と「変わらないもの」とがアベコベになってしまうのだ。

人間は変わる。

情報は変わらない。

これが転倒してしまうのだ。

われわれは「人間は変わらない」と思ってゐる。だから過ちを認めない。

「言葉(情報)は変わる」と思ってゐる。だから平気で約束をやぶる。

 もし、現代人に、「人は変わる」ということだけを叩き込んだら何が起こるかというと、「きのう金を借りたのは俺じゃない」と、都合のいい解釈をするだけです。

 借りるということは、返すという約束が前提にある。本来、約束を守れというのは社会でトップに来るルールのはずでした。

 人間は変わるが言葉は変わらない。情報は不変だから、約束は絶対のはずです。しかし近年、約束というものが軽くなってしまった。 63頁

発売から16年、「バカの壁」はどんどん高く厚くなり、「豹変する君子」などどこにもゐない。

約束は「言ってません」「知りません」「撤回します」で反故にすることが当たり前、公文書を改竄しても何の罪にも問われない世の中になってしまった。

ああ困った困った。

文と武をグルグル回して、どんどん豹変していきたいですね。

養老先生大好き。