手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「観光客の哲学 増補版」東浩紀

観光客の哲学 増補版東浩紀 ゲンロン 2023

「観光客の哲学」に犬の話が出てくる。

 家族という言葉は、いまの日本ではじつは、ここまで見てきた意味よりもさらに柔軟に使われている。というのは、最近では、犬や猫のようなペットも「家族」と見なされることが多いからである。むろんそれは法的には家族ではない。社会学的にも人類学的にも家族ではないだろう。けれども、ぼくたちの社会でペットを「家族」と呼ぶ人々が増えているのは厳然たる事実である。最近はペット対象の健康保険まである。

 ここにはまさに、家族の概念の拡張性が極端なかたちで現れている。家族のメンバーシップは私的な情愛だけで支えることが可能なので、ときに種の壁する超えてしまう。それは憐れみが引き起こした誤配である。しかもそこで興味深いのは、「家族的なるもの」の感覚を基盤にすると、ときに「類似性」の感覚ですら種の壁を越えてしまうということだ。ぼくたちはときおり、飼い主と犬の顔が「似ている」と感じないだろうか? しかしそこではなにが似ているのだろう? そもそも動物にとって顔とはなんだろう? 動物は顔をもつのだろうか? 哲学的興味はつきない。 

増補版 268頁

「観光客の哲学」が出版されたとき(2017年)、わたしは犬を飼ってゐなかった。「増補版」が出た今年、わたしは犬と共に暮らしてゐる。2021年の夏に突然飼うことになったのだ。自分で大丈夫かと当初は心配してゐたが、飼ってみたら大丈夫だった。とつぜん親になった。とつぜん親になれた。

わたしはまさに「憐れみが引き起こした誤配」から犬を飼うことになった。虐待されて放り出されて飼えるひとを探してゐると友人から連絡があり、そのとき環境を変えようと引越を考えてゐたところだったから、なにかの縁かもしれないと思って引き受けることにした。

飼ってみて犬が家族だと言うひとの気持ちが分かった。はじめのうちは犬のほうに不安があるのでこちらが心をくだいてあれこれ世話してばかりだったが、信頼関係が出来てコミュニケーションが取れるようになると、もう「飼う」という感じではなくなってくる。

与えることで与えられるとか、癒すことで癒されるとか、そういうことが身に染みて分かるのだ。そうなると、一緒に暮らす親友であり子でありパートナーみたいな感じになって、まあ家族だよねということになる。不思議なことだ。

他方でわたしには、犬について男の子とか女の子とか呼ぶこと、自分がお父さんと呼ばれることに抵抗したい気持ちもある。そこはオス/メスでいいだろう、飼い主でいいだろうと。家族であるにしても、種の壁は残しておくべきではないかという意識があるのかもしれない。なぜかは分からないが。

犬との生活の最大の魅力は間違いなく散歩である。犬との散歩は無目的にエネルギーを放出する喜びを思い出させてくれる。役に立つ、得になる、タイパがいい、コスパがいい、そんなことばかり考えて行動する貧しさから解放してくれる。冬の良く晴れた朝などは格別である。

そして、犬と散歩することでひとと出会うことが出来る。わたしたちは他者と関係をつくり維持することを面倒臭いと感じてゐる。その傾向がどんどん強くなってゐる。職場では個人的なことを訊かないことがいまやマナーである。集合住宅では表札に名前を出さないひとのほうが多くなった。

このように他者への無関心がデフォルトである社会で、そこらへんにゐるひとと出会いふつうに話をすることはたいへんむづかしい。犬はこの壁を突破する。犬と歩いてゐると、犬連れのひとはもちろんのこと、誰とでも気軽に話すことができる。犬と散歩するひとが大量に存在することによって成立してゐる公共圏というものが、たしかにある。

その意味で、犬は東浩紀さん言うところの「観光客」に近い働きをしてゐると思う。

無責任な観光客が国家の壁を超えるように、犬は現代人の匿名性への閉ざされをこじあける。犬は年齢や性別や社会的地位といったさまざま属性をまったく気にせずにひと同士を結びつけてくれる。犬と一緒だからそこらへんの子供たちとおしゃべりしても怪しまれないし、犬を飼ってゐるからこその近所付き合いが生まれる。

観察すると、たしかに犬と飼い主の顔は似てゐる。その通りだ。夫婦が似てくることも不思議だが、犬と飼い主が似て来ることはなお不思議だ。本当に似て来るのか、似てゐると思いたいからそう見えるのか、さっぱり分からないが、なんしか似てゐると感じる。犬と飼い主が馴染んできて、たしかにこの犬にはこの飼い主だな、と思う。

いろいろ不思議であるが、とにかく、犬、かわいい。

「訂正可能性の哲学」も読みます。

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