手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「新釈雨月物語」石川淳

新釈雨月物語石川淳 角川文庫 1994

上田秋成雨月物語」の石川淳による現代語訳、ではなくて新釈、というのは、解説によれば、原文がほとんどそのまま残ってゐる部分があったり、あるいは削ったり、逆に足したりということを自在におこなって出来上がったものだから。

原文を読んだことがないので石川淳がどのような操作をくわえたのかわからないが、傑作だと思った。古語もあちこちに出てくるので自分には意味が取れないところもあったが、文の調子に乗ってしまえばそんなもの気にならないし、気にしてはいけない。そう思って夢中になって読んだ。文の藝の凄みに、本を持つ手がふるえた。

(こういう作品は現代仮名遣いに改変せずに正統表記のまま出版してほしい😣)

袖は露にしめり、なみだにしめり、やがて日もしずめば、山奥の夜のさまはただならず、身を置くところは石の上、かぶるものは落ちかかる木の葉、寒さきびしく、こころは澄み骨は冷えて、何とはなしにすさまじい。 『白峰』

「袖は露にしめり、なみだにしめり、やがて日もしずめば」は「しめし」「しめり」「しずめば」で頭韻を踏んでゐる。全篇にわたってこの種の技法が凝らされてゐて、音の響きが気持ちよく、古い言い回しが出てきてもすっと読めてしまう。

世の中のさわがしいのにつれて、ひとのこころもおそろしくなった。たまにたずねて来るひとも、宮木の容色すぐれたのを見ては、さまざまにすかし、くどき、さそいの水をむけたが、宮木はむかしの貞女にもおとらぬ操をかたくまもって、にべもなく刎ねつけ、のちには戸を閉ざしてたれにも逢わなかった。 『浅茅が宿

「世の中のさわがしいのにつれて、ひとのこころもおそろしくなった。」はきれいに対句をつかった短文で、ここで文が締まる、立体感が出る。そして次の文は「さまざまにすかし、くどき、さそいの水を~」といった具合に、平面にさらさらと言葉をならべていく。見事な言語建築だ。

ふり捨てて来た磯良がきらいというのでもないが、女房のひく琴の音よりも、軒吹く風の向き次第にまかせたその日ぐらし、これも結句気散じと、やぶれ蒲団の上に袖を抱きよせれば、いまさらにいとおしく、正太郎、さだまらぬ腰をどうやらそこに据えた。 『吉備津の釜

「さだまらぬ腰をどうやらそこに据えた」はその場所に住むことにしたという意味と、袖という女にわが腰を押しつけたという意味がかけられてゐる。あまりに官能的でここを読んだときはふわふわした心地になった。

泣くに涙なく、さけぶに声なく、悲嘆のあまりに、なきがらを火に焼き土に葬ることもせずに、顔に顔をよせ、手に手をとりくんで日かずをすごされるうちに、さしもの阿闍梨、ついにこころみだれ、生前にたがわずたわむれながら、その肉の腐りただれるのを惜しんで、肉をすい骨をなめて、やがては食らいつくされた。 『青頭巾』

愛する童子を失った阿闍梨が悲しみのあまり腐った肉を食べてしまう場面。ここでも「たがわず」「たわむれ」「ただれる」と「た」を重ねて情念の奔流を描き出してゐる。いとおしくていとおしくて、死肉を食らう。私も犬が死んだらあるいはと、想像的に体験した。

石川淳の「新釈雨月物語」は素晴らしい作品だ。感動しました。