手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「人間の生き方、ものの考え方」福田恆存

 「人間の生き方、ものの考え方福田恆存 文藝春秋 2015

福田恆存はぼくが唯一、全集を最初から最後まで全部読んだ作家。「福田恆存全集」と「福田恆存翻訳全集」はぼくの宝物だ。災害など起ったらこれだけは抱えて逃げなくてはならないと思ってゐる(ダメだよ)。

福田は戦後保守を代表する知識人と言われてゐるが、ぼくは政治思想に格段の関心があって福田にのめりこんだのではない。まづ、福田の文章の見事さに感激した。福田の文章からは彼の「声」が聞こえてくる。その声から、かれの精神の緊張、高潔さ、高い倫理観を感じ取ることができる。

彼のように考えたいと思って全集をごりごり読んでいった。じっさい、とてもむづかしいので、理解できないところも多かったが、とにかく全集を全部読んだ。わからなくても読む。それが「附き合う」ということだ。福田思想の中心にこの「附き合う」ということがある。

「人間の生き方、ものの考え方」は全集未収録の講演を集めたものだ。これを読んで、改めて「附き合う」ことのむづかしさ、大切さに思いいたった。しばらく離れてゐた福田恆存と、またほそぼそと附き合いをはじめてみたいと思った。

以下、メモ。

  悪に耐える思想と申しましたが、思想というものはみんなそういうものだと思います。秩序を守るために、あるいは全体感覚をわれわれのうちに植えつけるために、当然犯さなければならない悪というものがある。それに耐えてゆく、それが思想というものだと思います。政治というものはなんらかの意味で悪を犯さなければ成り立たない。ある時は嘘もつかなければ成り立たないのです。政治にかぎらずあらゆる思想というものはみんな悪を持っています。キリスト教すらそれを免れない。どんな思想でも必ず悪を持っている。思想において大義名分というものが必要になってくるのも、そのような悪を行わなければならないからなのです。思想というもの、一つの生き方というものはそういうものであろうかと思います。 40頁

  これはよく言われる例ですけれども、イギリス人は庭をつくるときに、苗を買ってきて安いのを植えるのです。「爺さんのくせにそんなものを買って来てなぜ植えるのか。お前の死ぬまでにどうにもならないのに」と私たちは思うのですが、彼らが考えているのは子や孫のことを考えているのであって、時間を見る見方の波長が非常に長いわけです。ところが日本ではいま言ったように外国の文明を取り入れたのだから、大変時間がかかるにもかかわらず、考えるのは短兵急で忽ちのうちにその近代化が西洋にすぐ追いついてしまう、そして日本独自なものを忽ちのうちに出そうとして焦る。そうすると今度はそれが非常に固陋な国粋主義になってしまったりするのです、こうして日本は左へぐっと傾いたかと思うと右へ傾いていく、明治以来歴史を見るとみんなそういうことをやっている。結局は焦るからなのです。ゆっくりやればいいので、自分の子や孫の時代でもいいし、もっと先でもいい、そういうところに焦点を合わせてゆけばいいのです。「自分の目の黒いうちに」というのはエゴイズムなのです。自分がよくしようというからいけないので、自分がただその歴史の一つの流れの一環をなすのだという自覚をもたなけれなならない。だから私が「自分ではそれだけの立派な思想をもっていない」というのは謙遜だと思われる方がおられるかもしれないけれども、そうではなく、現代では誰一人としてそんな大それた思想をもっている筈はない、みんなが模索していろいろなことをやっていると思うのです。

 ただその中に「これが解決策」ということで押しつけてくる人間がいるのは事実なので、私はそれに対して非常な反撥を感じるのです、そんなことではなくて、みんなでゆっくり歩こう、おれの歩き方はこれが一番歩きいいのだとAがいう。BはBでこちらの方がいいという。そういうことをみんなでやりながら、Aの歩き方、Bの歩き方というものに、お互いがつきあってゆく、そうすれば非常に歩みが遅いわけですが、無理のない生き方なのです。こうしてみんなに共通な地盤が出来上ってしまえばーーーそのときこそ、それが揺るがぬものになってくる。 64-66頁

 その人の性格にもよるでしょうが、私は絶望というものがあらゆるものの出発点だと思うのです。人間というものは絶対孤独であって、人と人との間に最終的に架ける橋はないというのが私の人間観です。人間はエゴイスティックなもので、本当は自分のことだけしか考えていないのだということを、一度痛切に見つめることが大切です、そうすると、人間というものは非常に悪いもののように思われますが、私はそのエゴイズムというものが、生きる力、生命のエネルギーだと思います。ベトナム戦争で弾に当たっている人を想像しただけで、自分がその痛みを感じていたら、われわれは一日として生きられないでしょう。今原爆反対を叫んでいる進歩派の学者たちは、広島に原爆が落ちた時、これで戦争が終り、自分達は生きのびられたと欣喜雀躍したことを忘れているのです。その時の自分の姿がよく分っておれば、今日のような騒々しい平和運動は起りえないでしょう。人間の中に潜むエゴイズムをもう一度見直した方がよいのです。もし私たちが先に原爆を発明していたら遠慮会釈なくアメリカに落したであろう。

(略)

私は人間と人間の間に架ける橋はないと考えます。それで諦めて駄目になる人間は、駄目になったらよろしい。人間は皆愛情を持っている、日本は世界中に愛されているーー日本国憲法の前文にはそう書いてあるーーこういって育てて行ったら人間は駄目になる。なぜならそれは嘘だからです、極限状態に追い込まれた時、人間はどんなことを仕出かすか分らないのだというところから出発して、始めて自己と戦うという工夫が出て来るわけです。本当の意味で人を愛しようという気持も出て来る。言葉による伝達は不可能だと痛感する時、始めて言葉に心をこめるような真剣な努力が出て来るのだと思います、私が絶望と言う時にはこれで終りだというのではなく、これから何かやり甲斐のある仕事をはじめるという出発点を意味しているのです。 105-107頁