手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「現代思想の教科書」石田英敬

現代思想の教科書石田英敬 2010 ちくま学芸文庫

 

現代思想」いうのはたとえばソシュールとかフーコーとかレヴィ・ストロースとかラカンとかそういう人達がつくりだした知のことを言う。

で、「現代思想」やってますと言うと、彼等の書いた本を読み、考え、論じたりするという意味になる。

だからこの「現代思想の教科書」は、シニフィアンとか生権力とか象徴交換とか鏡像段階とか聞きなれない抽象的な概念を紹介してその意味するところを説明する、そういう本である。

では、こんな本を書く、あるいは、こういう本を書きたいとか読みたいとか思ってゐる人達が、ただややこしい概念操作が好きだから、あるいは面白いからやってゐるのかというとそうではない(もちろん、好きで面白がってないとできないことだが)。

現代思想の本を読み考えるというのは、現代という時代を知り、人間を知ることである。人間がつくりだした文明・文化とはどういうものなのか、またその中で生きるとはどういうことなのかを問うことである。

「私たち一人ひとりが世界の基礎づけを自分の思考によって行うこと」が「思想」の経験だ、と私は述べていたのですが、これは、つまり、様々な知の領域において探究されてきた問題圏を知り、そこにおいて、人間の存在にとって根本的な価値にかかわる問題とはどのようなあり方 をしているのかを理解し、ひとり(「自分の思考」)で「世界の基礎づけ」を試みる経験だ、と述べてきたわけです。問題圏は多様な広がりを持ち、知の領域は様々だけれども、それを知りながらも、ひとりで「世界を基礎づける」ことができるようになる、というところがポイントだと思います。 342頁

思想系の読者が少ないというのは、この変の事情がうまく伝わってゐないことに大きな原因があるのではないかと思う。

生権力でも、鏡像段階でも、難しい概念ではあるけれど、それもそもそもは世界を把握して分析しようという試みのなかで、現実から抽象されて出てきた概念なので、最後には「世界を基礎づける」ことに、もっと俗にいうと「いかに生きるか」というところに道を通じてゐるのである。

そういうわけだから、文系でなくても、院生でなくても、こういう本の読者がもっと増えたらいいなと思う。

この本は「この概念はこういうふうに使うと現実をこんな具合にとらえることができますよ~」という応用の仕方がいろんなところに書かれてあるので、現代思想を自分の問題として、引きつけて読むことができる。

まづ、第15章の「総括と展望」を読み、そうして頭に戻って読み進めるのがよいと思う。

「総括と展望」を読むと石田氏の仕事の射程がよく見えてくる。

氏は現代世界における知と世界との関係を「四つのポスト状況」と言う。

1、ポスト・グーテンベルク状況

2、ポスト・モダン状況

3、ポスト・ナショナル状況

4、ポスト・ヒューマン状況

「ポスト」というのは「~の後」という意味で、「ポスト~」という言い方でしか言い表せない状況ということは、要するに今は過渡期であってその後が何であるか、それが完全には出現してをらず、それゆえにまだ名前がついてゐないのである。

活字メディアが、近代の知が、国民国家が、「人間」が、終わりつつある。

そのような時代においては従来の「人文知」、あるいは「哲学」によっては、世界を基礎づけることができない。

 すでにみてきましたように、近代において知をまとめ上げる位置を占めてきた「人文知」の「支配」は、現在では否定しがたく揺らいでいます。しかし、それに取って代わる、別の一般知が登場したということはできないのです。現在は、その意味では、「知の大空位期」とでもいうべき状態にあるといえます。

 この空白を埋めるのが、「人間」の知であり続けるとすれば、それは、「来るべきフマニタス」あるいは「新しい人文知」とでもいうべきものであろうと私は考えています。「人間」の知であり続けるとすれば・・・・という留保条件を付したのは、「人間」の知ではないタイプの知が、「人間」の代わりに「総合」を行う時代を私たちがすでに生き始めているからです。 348-349頁

「新しい人文知」について、本書では若干の考察がなされてゐるが、その詳細は語られてゐない。

それは「新記号論」と、そして今後発表されるであろう氏の主著を俟たねばならない。

とても楽しみだ。

政治や社会のニュースを読み、ネット言説を渉猟してゐると、生命力がどんどん削がれゆくのを感じるけれど、こういう本を読むと「よおし、がんばるぞお」という気分になる。

良質の知性に触れると元気が出る。

これは声を大にして言いたいところです。