「ジョブ型雇用社会とは何かー正社員体制の矛盾と転機」濱口桂一郎 2021 岩波新書
日本型雇用システムのどのあたりに問題があるかがわかった。そして、それがどうも短期的に解決できるような問題ではなさそうだという印象をもち、まあ問題というのは常にそういうものかもしれないが、気鬱になった。ううむ、厳しい。
ぼくが強く感じたのは、これは究極的には日本社会が男女平等をどうやって実現するかという問題なんだということ。強めのことばをつかえば、男尊女卑をいかに克服するかというはなし。
正社員の働きかたはメンバーシップ型で、非正規のそれはジョブ型である。日本型雇用システムは従来メンバーシップ型が支配的で、特徴は終身雇用と年功序列と企業別労働組合。これを支えるのは性別にもとづく役割分担。男が外で稼ぎ、女が家内を守る。
教育もこれに対応してゐて、職業教育は会社に入ってからおこなわれ、入社時点では特定の技能をもたないまっしろな状態である。だから職業に直結する特定技能をさづけるための専門学校や職業訓練学校の地位は低い。
また会社にとっての女性は花嫁候補にすぎず、結婚して退社することが前提だから、高卒が優先して採用される。
このメンバーシップ型雇用の慣習とそれを支える精神性とかイデオロギーみたいなものが強固に確立されてゐたという経緯がある。
そこへ80年代に「男女平等(雇用機会均等法)」がもちこまれ、90年代に「失われた○○年(正社員の絞り込み)」がやってきた。女性の社会進出がすすむと同時に、正社員になれないひともたくさん出て来た。
かくして現在正規と非正規の比率は6対4くらいになったのだが、全体のシステムとこころの持ちようのほうはメンバーシップ型が支配的であるために現実と噛み合わない。ここに問題の所在があるのだ。とぼくは理解しました。
日本だけが30年もまったく成長せず賃金も上がらない理由について誰も決定的な答えを出せてゐないけれど、この雇用システムの矛盾も、おそらくはおおきな原因のひとつなのでしょう。
いうまでもなく割りを食ってゐるのは非正規であり女性であるわけだが、正社員や男だっていちがいに良いとか楽ともいえない。正社員は往々にして過重労働が暗黙のうちに期待されてゐるし、最近は正社員になれなかった弱者男性の怨念も問題となってゐる。
(ぼくのように「男らしくない」男もけっこうたいへんだ、とちいさな声でいっておく)
日本も諸外国と同じようにジョブ型雇用が支配的になっていくべきなのだろうか。わからない。ただ、とにかくぼくたちは不安なので、既得権益を守りたいしそこに入り込みたいという気持がつよい。これは仕方ない。だから順番としてはまづ社会保障で、次に教育と雇用ということではないかしら。
この不安ベースの思考をなんとかしないと、どのような試みも、いま金と権力をもってゐるひとがより肥えるだけ、みたいなことになるのではないか。この10年はそのようにして階層化が進んだように思う。違うかもしれませんけどね。
以下ノートをば。
ジョブ型とメンバーシップ型
(・・・)日本以外の社会では、労働者が遂行すべき職務(job)が雇用契約に明確に規定されます。ところが、日本では、雇用契約に職務は明記されません。あるいは、明記されるか、されないかというよりも、そもそも雇用契約上、職務が特定されていないのが普通です。
どんな仕事をするか、職務に就くかというのは、使用者の命令によって定まります。これは、日本人はあまりにも当たり前だと思っていますが、私はここに日本の雇用契約、日本の雇用システムの最大の特徴があると考えています。
この点を私は、日本の雇用契約は、その都度遂行すべき特定の職務が書き込まれる空白の石板であると、その特徴を捉えました。そして、日本における雇用の本質は職務(job)ではなく、会員/成員(membership)であると規定しました。 25頁 改行を追加した。以下同。
低位ジョブ型としての非正規労働者
こういう日本的なメンバーシップ型の仕組みは、しかしながら、全ての労働者に適用されるわけではありません。今や全労働者の四割近くがパートタイマー、アルバイト、契約社員、派遣社員などと呼ばれるいわゆる非正規労働者ですが、彼らは会社のメンバーシップを有しておらず、具体的な職務に基づいて、(多くの場合期間を定めた)雇用契約が結ばれます。
そして労働関係の在り方を見ると、欧米やアジアなど日本以外の諸国における普通の労働者の働き方に近いのは、むしろこの非正規労働者のほうです。 40-41頁
ジョブ型社会における訓練、資格
ジョブ型社会というのは、こういうフォーマルな教育訓練制度を終了することで獲得された資格でもって特定のジョブに就職する社会です。逆にいえば、そういう資格がないゆえに就職できないというのが、欧米での雇用失業問題であり、それゆえにそれに対する対策は主として教育訓練に力を入れて就職できるような資格を与えることになるわけです。
フォーマル学習に基づいて発給された修了証書がその人のスキルを表すものであると社会の多くの人々が受け取ってくれる社会であるからこそ、資格を得た人はスキルのある人とみなされることなるのです。 92-93頁
夫と妻のワークライフ分業
エリートとノンエリートを入口で区別せず、頑張った者を引き上げるという意味での平等社会。このシステムにおける平等とは、いわばガンバリズムの平等主義です。
(・・・)
とはいえその「平等」は、そうやって頑張ることのできる者だけの平等に過ぎません。かつてのモーレツ社員たちの隣にいたのは、結婚退職が前提で補助的業務に従事するOLたちだったかも知れませんが、その後輩たちの隣にいるのは、会社の基幹的な業務に責任を持って取り組んでいる総合職女性たちなのです。
彼女らはもちろん結婚しても出産しても働き続けます。しかし、子どもを抱えた既婚女性には、かつての男性社員たちとは違い、明日の朝まで徹夜して頑張ってみせることは不可能です。彼らの平等は、彼女らにとっては何ら平等ではないのです。
むしろ、銃後を専業主婦やせいぜいパート主婦に任せて自分は前線での戦いに専念できるという特権でしかありません。その特権を行使できない総合職女性たちがいわゆるマミートラックに追いやられていく姿は、平等という概念の複雑怪奇さを物語っています。 201-202頁
擬似エリート男性たちのガンバリズムの平等主義が、戦後日本の経済発展の原動力の一つとなったことは間違いありません。しかし、その成功の原因が、今や女性たち、さらには男性でも様々な制約のために長時間労働できない人々の活躍を困難にし、結果的に日本経済の発展の阻害要因になりつつあるとすれば、私たちはそのガンバる平等という戦後日本の理念そのものに疑いの目を向けていかざるを得ないでしょう。
長時間労働問題はなかなか一筋縄でいく代物ではないからこそ、その根源に遡った議論が必要なのです。 202頁
時間外労働の上限
六法全書の上ではどの先進国に比べても遜色のない法律の規定を持ちながら、日本のワーク・ライフ・バランスはなぜこんなにも貧弱なのか。それは、二〇一八年改正を経た現在でもなお、時間外労働の上限が原則年三六〇時間、例外年七二〇時間、単月で一〇〇時間未満という、過労死しないぎりぎりの水準に置かれているからです。
確かに、いのちの安全が確保される限り、長時間働きたいという選択を禁止することはできないでしょう。しかし、普通の労働者に適用されるデフォルトルールは明確に変更すべきではないでしょうか。 207頁