手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

なり

昨日のレッスンは生徒さんがわたし含めて5人しかゐなかった。はじまった時なんかふたりだった。そういうときもある。わたしはこの二年、週二回のレッスンを一度も休んだことがない。ヌータン先生が休みで他の方が代行するとき欠席者があからさまに増えるのだけれど、わたしは休まない。

妻子なく、親の介護もないという境遇が、この継続の前提であることは間違いない。けれどそれだけではない。情熱、やる気、気合。それもある。でも、それで乗り切れないことがあるもので、というかもともと体力がなく、おまけに30代後半ともなればだいたいどこか痛い。根性だけでは継続できない。

わたしは常に「~なりにやる」ということを心掛けてゐる。いや本当を言うと、昨夜のレッスンの後に気が付いた。しんどいならしんどいなりにやる。痛いなら痛いなりにやる。やる気が出ないならやる気が出ないなりにやる。下手なら下手なりにやる。自分はいつもそのように考えて、継続してきた。

なるほど「なり」というのは面白い言葉だ。姿形・様態をあらわす「なり」から派生した用法で、大辞林には「名詞・活用語の連体形の下に付いて、それによって制約・決定された状態、それ相応の状態などの意を表す」とある。例に「道なりに行く」「彼には彼なりの意地がある」など。

愚考するに、「道なり」「山なり」など物理的状態に沿う「なり」がまづあり、そこから「彼なりの意地」とか「しんどいなりにやる」みたいな心理的状態に沿う「なり」の用法が育った。実に面白い。

思うに、「制約・決定された状態」というのがポイントで、「なりに~」には、その状態でどれだけのことが出来るかを工夫するような、創造的な態度がある。この感じは素敵だ。楽しい、とさへ言えそうだ。

わたしは昨夜レッスンが終わって床に就いたあと如上のことを考えて、こりゃいいやと思い、今日になっても覚えてゐたので、ここに書くことにした。