Kovida への道
ヌータン先生の舞踊学校 Avartan School Of Kathak の4年次の試験を終えた。
同校はかつてヌータン先生がカタック専攻の主任を務めてゐたムンバイの舞踊学校 Nalanda Nritya Kala Mahavidyalaya と提携してゐるので、修了証は Nalanda から授与される。
試験は全部で7年次まであり、ある年次の試験範囲は過去年次のすべてを含むためどんどんむづかしくなっていく。わたしが参加してゐるオンラインクラスでは4年次の試験にひとり(わたし)、5年次の試験にふたりが参加した。
そのふたりはともにダンサーとして、また指導者として活動してゐるひとである。5年次ですでにそうなので、全体として質量ともに非常に高度なカリキュラムとなってゐる。そのことにヌータン先生は自負を持ってをられる。
毎年気が滅入るのが1)の「Revision of old lessons」すなわち「これまで勉強した内容すべて」であり、それが厖大なためにみな難儀するのである。本当に多いのです。
具体的な指示が出てゐるものは焦点をしぼって練習すればふつうは対応できる。けれど過去のものをすべて準備するのはとうてい無理なので弱ってしまうわけです。
でもそういう緊張感があるために実際よく練習して準備するので、これは大事だろうというものはこの機にみな暗記してパッと動けるようになる。だから指導者を目指す階梯としては必要なものである。
毎年 Nalanda から知らない試験官が来て、これを見せてください、あれをやってくださいと言われ、やる。ヌータン先生と娘さんのキタキ先生も別の窓で見てゐる。アシスタントのアシャンタ先生もひかえてゐる。
現地の試験はみんな会場に集まるので交流と鼓舞があるんだけれど、わたしなどはオンライン試験だからいつもの部屋でひとりでやる。しかも寒いし夜だしでとても孤独である。
今年は実にあっさりしてゐた。ものの10分くらいで済んでしまった。いつも時間が押して延び延びになることの反省かもしれない。あるいは試験官の性格かもしれない。ディスプレイ越しに、その穏和で知的な人柄が知れた。求められたのは次の三つ。
- Paran をひとつ見せてください。
- Aamad をひとつ見せてください。
- Guru Vandana を、可能なら自ら詩を朗誦しながら踊ってください。
特に大きなミスもなく披露出来た。3. に「可能なら」とあるのはわたしが外国人であることに配慮してそう言ったのである。Guru Vandana の詩は極めて簡単なので問題ない。横からヌータン先生が「彼は大丈夫だ」と言った。試験官はうなづいた。わたしは自分で朗誦しながら踊った。
ヌータン先生は「Very nice」と言い、試験官は「Very nice. I enjoyed it.」と言った。それで「OK, You can go.」ということになり、ズームから退出した。日本時間で夜の9時である。
過去の内容についてはなにも求められずちょっと拍子抜けではあったが、とにかく終ってホっとした。少しして5年次の試験を受けたウマさん(素晴らしいダンサーである)から電話がかかってきてあれこれ話した。
聞けば今年の試験官はウマさんの最初のグル(先生)なんだって。ウマさんがかつてナーランダ(Nalanda)でなにかの課程に在籍してゐたときの先生でもあったそうだ。本当によい方であると言ってゐた。わたしもそう思った。
ウマさんは去年までカタールのドーハで暮らしてゐたが、引っ越していまはムンバイに住んでゐる。今度インドに行ったら会えるだろう。
電話を終えて、チルするために犬と短い散歩に出た。帰りにマクドナルドに寄ってポテトLサイズとチキンナゲットとホットアップルパイを買った。帰って金麦を飲みながら食べた。
ふだん自炊で酒もほとんど飲まないが、大きなイベントが終ったのでなにか儀式っぽいことをして精神の平衡を取り戻したいような気分がある。だからマックと金麦である。別に唐揚げと黒ラベルでもよい。今回はたまたまマックと金麦であった。
ところで、上掲の試験用紙の中央に「KOVIDA」とある。これはサンスクリット由来の言葉で、「熟達した人」「精通してゐる人」「賢者」などの意味を持つそうだ。インドの伝統藝能の世界で使われる言葉なんでしょう。
7年全体のカリキュラムによって「KOVIDA」を目指しましょう、あるいはそうなれるようなカリキュラムを組んでますよというわけだ。
もちろん学びの課程は死ぬまで終わらない。60歳のヌータン先生はいまでも74歳のシャマ先生の指導を受けてゐる。
去年ムンバイにゐたときにわたしはその場面に遭遇した。ヒロキ、これからシャマ先生のレッスンがある。今日はここまでにしましょう。先生はそう言ってズームに入った。
伝統藝能はそういうところがいいですよね。
Give Exam やて?
インドのひとは「試験を受ける」ことを「give exam」と言う。わたしの観察では全員そう言う。
何年次の試験を受けるのか? は「Which year's exam are you giving?」で、今年は受けないかも、は「I may not give any exam this year.」である。
わたしは初めてこの「give」の用法を聞いたとき頭の中にはてなが浮かんだ。ギブっておかしくないかと。わたしの語感では試験はギブではなくテイクするものです。でもみんな give と言う。これはどういうことなのか。
慣れてしまってずっとほったらかしてゐたのだけど、今年久しぶりに、やっぱりおかしいのではないかと思って ChatGPT に訊いてみた。インド人が試験を受けると言うときに使う give の用法は特殊である。これはどういう背景があるのか?
ChatGPT氏は素晴らしい回答を与えてくれた。
インド人が「give exam」と言う理由は、ヒンディー語の影響にあります。ヒンディー語では、試験に関して「परिक्षा देना」(pariksha dena)という表現が使われます。この表現の「देना」(dena)は「与える」「行う」という意味を持ち、試験を受ける行為が、外部から与えられたものに参加するという観念から来ているためです。
1. ヒンディー語の影響:
「परिक्षा देना」は「試験を与える」という意味で、試験を受けるという行為が「与えられるものに参加する」という観点から形成されています。試験そのものが外部から与えられるものと捉えられ、受ける側の行為を「与える(give)」として表現するわけです。つまり、試験が自分に与えられ、その与えられた試験に参加するという意味が込められています。2. 英語の影響との違い:
英語では、試験を「受ける」というニュアンスを強調するために「take exam」や「sit for exam」が一般的ですが、インド英語ではこのような言い回しが、ヒンディー語の影響を受けて「give exam」となっています。実際、インド英語では「give」や「do」という動詞を使って、他の言語で「take」や「sit」になる動作を表現することがよくあります。3. 言語的な観点からの理解:
英語では「take」は、行動主体が試験に対して受動的な態度をとることが多いのに対し、ヒンディー語の「देना」や「करना」には、行為者が積極的に試験に関わるニュアンスが含まれている場合が多いです。これが「give exam」に表れる理由であり、インドにおいては「give」が自然な表現となります。要するに、インド人が「give exam」と言うのは、言語と文化の背景に根ざした自然な表現であり、ヒンディー語の構造が英語に影響を与えているからです。
これはおそらく正しいですね。
全部正しいかはわからない。しかしヒンディー語の表現に引っ張られてインド英語では「give」になるんだというのは説得力がある。日本人だって「make」とか「come」みたいな多義的な基礎語は日本語に引っ張られた使い方をしがちだ。
この事例では英語とヒンディー語における受動/能動の概念把握の違いが現れてゐるのですね。いやあ、これは面白い。いい話です。
関心したのでChatGPT氏に「あんた本当に賢いな」と言ったら、
ありがとうございます!そう言っていただけて嬉しいです。お役に立てて光栄です。何か他にも気になることがあれば、ぜひ教えてくださいね!
と返ってきた。また頼むで。
Sharvari さんのダンス
5年次の試験を受けたふたりのうちウマさんのことは上に書いた。もうひとりはシャルヴァリ(Sharvari)さんである。ドイツのデュッセルドルフという街で英語とダンスを教えてゐる。その流暢な英語力はわたしの憧れである。
ダンスもまた素晴らしい。先日シャルヴァリさんがインスタグラムにある動画を投稿され、わたしはあまりに感激したので「これはブリリアントでアメイジングです。感動しました。」とメッセージした。そしたら完全版の動画のリンクを教えてくださった。
それがこちら☟
Saraswati Vandana である。Saraswati(サラスヴァティ)は神様の名前、Vandana(ヴァンダナ)は神を賛美する、祈禱、招喚といった意味。
これは2022年に亡くなったビルジュ・マハラジという伝説的なカタック舞踊家(現代カタックの完成者、カタックを世界的な舞踊に押し上げたひと、全カタック舞踊家が彼の影響下にあると言って過言ではない)が作曲・振付したもの。
ヌータン先生はビルジュ・マハラジが生前ムンバイで行ってゐたワークショップの選抜メンバーだったので、彼の作品をたくさんレパートリーとして持ってゐる。サラスヴァティ・ヴァンダナはそのうちのひとつである。
わたしもこの振付をたぶん半分くらいは習ったと思う。でも、よく覚えてゐないのだけれど、途中で先生がどこかへ行ったか、ほかのものを習い始めたかで、なんしか全部は知らない。こういうのはインドあるあるですかね。
ともあれ、シャルヴァリさんのサラスヴァティ・ヴァンダナは素晴らしいと思う。何度も繰り返し見てゐる。自分がどういう表現がいちばん好きかを再認識させてもらった。
洗練と気品が生み出す美しさ。これです。