手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

日本人の規律について

先週の水曜日のクラスで、ヌータン先生はぼくに日本人の規律について説明を求めた。頭の中にいろいろ言いたいことがあったが、英語が苦手でうまく話すことができなかった。先生は「ヒロキが英語を話すのが苦手なのは知ってゐる。だから文章を書いてグループにシェアしてほしい」と言った。

ぼくはまづ日本語で書き、それを DeepL で翻訳し、ときどき ChatGPT の意見を聞き、「Discipline on Secular island」という文章を完成させた。

以下は日本語の元原稿である。機械に翻訳させる前提で書いたので、仮名遣いも漢字も標準的なものにしてある。

 

デーヴァダーシと芸者

先日のクラスでヌータン先生は日本の芸者に言及されました。その趣意はどのような舞踊であっても反復的な訓練がなければアートと呼べる水準には達しない。それはカタックであろうと日本の芸者文化であろうと共通しているはずだというものでした。

先生は「規律(discipline)」という言葉を強調されました。先生は「日本人の規律」というものに関心があり、芸者文化や日本製の工業品にそれを感じている。第二次世界大戦の敗戦から30年程度で経済大国となった事実もこれと関係があるのではないかと考えている。

唯一の日本人生徒であるわたしには先生が提出されたトピックに対して応答する責任があります。わたしはここで芸者文化について語り、次に「日本人の規律」というさらに大きな議論へと展開してみましょう。

先生はインドにおけるデーヴァダーシ(Devadasi)の存在を引き、日本のゲイシャガールも同様に、主として男性に性的なサービスを提供する存在であるという不当な評価を受けてきたのではないかと言いました。

舞踊や音楽などの伝統的技芸をになう存在であったこと、また19世紀ヨーロッパ人の狭隘な性道徳ゆえに、性的な面が過度に強調され、下等にして野蛮な風俗であると理解されてしまったという点において、たしかにデーヴァダーシと芸者は似ています。

わたしはインド古典舞踊を学ぶ日本人でありながら、先生に指摘されるまでこの類似に思い至りませんでした。わたしにはむしろ相違点のほうが意味をもち、それがために類似点はまったく意識にのぼらなかったのです。

両者の違いについて考えてみましょう。(わたしのインド舞踊への理解が的外れでないことを願います)

わたしの考えでは、デーヴァダーシと芸者は次の二点において異なります。第一に宗教性・聖性を有するか否か。第二に彼らの芸能が現代において活力を有しているか否か。

まず、宗教性・聖性についてですが、デーヴァダーシにはそれがあり芸者にはありません。デーヴァダーシの起源はヒンドゥー教の寺院文化にあり、彼女たちの舞踊、ひいては存在そのものが神への捧げものとされた。すなわちインド人の信仰生活の一要素であった。

いっぽう日本の芸者文化に宗教性はほとんどなく、あっても乏しいと言えます。芸者は日本語表記では「芸者」と書き「芸」はアートや技術、「者」はひとを意味します。その芸は神を称えたり神に捧げたりするためのものではなく、宴席に興を添えるためのものです。高い技術が要請されるにしても、極めて世俗的なものです。

もうひとつ、現代における活力の有無ということですが、ここにインドと日本が経験した近代の違い、あるいは歴史感覚の違いがあらわれていると思います。

インドでは20世紀初頭の民族復興の過程で、舞踊の世界でもルネサンスがおこりました。デーヴァダーシやノーチガールと呼ばれた人達のダンスが正統な評価を受けるようになり、理論的にも整備がされ、より体系的で包括的な枠組みを獲得した。

いまやインドにおいて伝統舞踊を学ぶことは、特に女性にとって、一般的なことであり、現代的なダンスを踊るひとも俳優も、なんらかの伝統舞踊から出発している場合が多い。伝統舞踊の訓練によって養われる所作の洗練が現代的なダンスに質的な充実を与えている。

その象徴がマードゥリー・ディキシットです。彼女のカタックダンスは素晴らしく、彼女のボリウッドダンスも素晴らしい。彼女においては歴史と現在とが分離していない。伝統的なものと現代的なものとが自然に共存しています。

日本はどうでしょう。芸者はいまでも京都の料亭で歌ったり踊ったりしています。しかしルネサンスはおこらなかった。芸者たちの舞踊が日本におけるカタックやバラタナーティアムへと発展することはありませんでした。

なぜなら日本は西洋化を選択したからです。19世紀に日本もまた欧米列強による侵略の危機に直面しました。日本は自国を欧米列強のような国に改造することで彼らに対抗しました。結果として日本は植民地にならずにすみましたが、その代償は大きかった。歴史の喪失です。

現代の日本にも芸者は存在します。能も歌舞伎もあります。舞踊に限りません、日本にはさまざな伝統芸能が生き残っています。けれどもその様式も内容も、ふつうの日本人の生活からはかなり距離がある。多くの日本人にとって、日本の伝統はエキゾチムの対象とさえ言えるでしょう。

日本においては歴史と現在とが分離しているため、伝統的なものと現在的なものとのあいだに自然な連絡がありません。したがって日本にマードゥリー・ディキシットは登場し得ないし、登場しても発見されないでしょう。

現実への帰依

さて次に日本人の規律(discipline)について述べましょう。うえに芸者文化には宗教性が稀薄であること、芸者の芸は神のためではなく世俗的な快楽のためにあると言いました。世俗の快に奉仕するという性質は芸者のみならず、日本の文化全体、日本人の思考様式までを支配している本質的な傾向です。

そして日本人の規律はまさにこの宗教性の欠如からくるのです。日本に宗教がないとか霊性に乏しいという意味ではない。宗教的な感覚や情熱が超越的な次元と結びつかず、世俗的で具体的なモノやコトに向けられるということです。

なぜなら日本人は超越的な次元、形而上のものを理解することが極めて不得手な民族だからです。抽象的なものを抽象的なままに把握することが苦手なのです。日本には仏教や神道といった宗教が存在しますが、これらも世俗的な儀式として捉えられており、崇高や畏れといった感覚を養う力は弱いのです。

さて、超越的な次元とのつながりがないために日本人はいつも不安で自信がありません。そこでわたしたちはこの不安を解消するために世俗的な現実に自己を固着させ、自我を安定させます。それはしばしば宗教的な情熱をもち、不合理でもあれば、まったく意味のないものだったりします。まさに現実への帰依(devotion)です。

日本人は抽象概念を理解しないかわりに、現実のモノやコトに対しては非常に敏感で繊細です。その繊細な感受性によって現実を把握し、自己を一体化させること。それが日本人の帰依です。そして現実に帰依して一体化するためのマニュアルが日本人の規律(discipline)なのです。

この日本的な帰依と規律という性質から、わたしたちは様々な便益を享受してきました。超越的な次元とつながっていないということは、信念がないということですから、状況に応じて豹変することができます。19世紀に欧米列強がやってきたときも、20世紀にアメリカに敗れたときも、日本は豹変し、新しい秩序にうまく適応しました。

日本の製品の質が高く均一であるのも、電車が1分違わず時間通りにやってくるのも、日本人は自分が取り組んでいるモノやコトに宗教的な情熱をもってしまうからです。神の命令でも神に捧げるためでもないのに、高い精度を維持してしまう。そこに美的な洗練を加えたくなる。

便益を生むのと同じ性質によってしばしば巨大な災厄がもたらされ、今日も日本人を苦しめています。それは規律の自己目的化ということです。形式主義と言ってもよいでしょう。状況に応じて豹変する日本人は、同時に変化を怖れ、変革者を憎悪する日本人でもあります。

日本人は現実を正しく認識し、適切なモデルを設定することができた場合には非常に高いパフォーマンスを発揮できますが、それに失敗したり、あるいは状況が変化してそのモデルの有効性が失われた場合には悲惨な結果となります。

大日本帝国は近代化を遂げることで独立を保ちましたが、帝国主義とは別の秩序を構想することができず、アジア諸国を侵略することになりました。勝つ見込みのない戦争を続け、アメリカに2発の原爆を落とされるまで止めることができませんでした。

敗戦後は冷戦構造のなかで西側陣営に入り、アメリカが主導する秩序のなかで経済発展を遂げて経済大国になりましたが、冷戦が終った90年代以降、日本は30年間ほとんど経済成長していません。どんどん貧しくなっています。

日本人が変化を怖れるのは、日本人の自我が現実と密着しているからです。自分と現実が一体化しているので、現実を批判されると自分を否定されたように感じてしまう。そうして批判者を攻撃するのです。したがって日本においては一度ある規律が成立し、巧く機能して成功体験を得てしまった場合、これを捨てることはきわめて困難です。

戦後80年近く経ちますが、日本ではほぼずっとひとつの政党が支配し、政権交代がなかなか起きません。それは彼らの政治が常に素晴らしいからではなく、現実を批判せずに、現在の秩序にうまく適応することが日本人の普通の生きかただからです。

「普通の生きかた」とは周りと同じようにふるまうことです。日本人はギーターも聖書もクルアーンも仏典も論語も読みません。どこにも生きかたの規範がない。周囲と摩擦を起こさず、ひとに迷惑をかけないことが唯一の規範です。

ところが日本人も近代人なので、みんな個人として自分らしく生きたいとか、個性を解放したいと思っている。それも本当なんです。しかし自分も社会もなかなか変われない。そのことにいま日本人は非常に苦しんでいるのです。

自分が変わることも怖いし、社会が変わることも怖い。自分と現実とが一体化しているからです。自分が変わろうとすると社会が邪魔をする。誰かが社会を変えようとするとあなたは不安になる。豊かで長寿なのに幸福度が低いのはこの素晴らしい規律のためなのです。

世俗性に耐えられず超越性を求める日本人もとうぜんいます。そういうひとは、例えば哲学をやったり特定の宗教に入信したりします。外国に出ていくひともいます。

わたしもそのような日本人のひとりであり、カタックを学ぶことで、世俗的現実とは別の次元とつながりたいと思っているのです。