手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「新版 吉本隆明1968」鹿島茂

新版 吉本隆明1968鹿島茂 平凡社ライブラリー 2017

若い世代に「吉本隆明の偉さ」を伝えるために書いたとのこと。吉本の本は「真贋」とか「夏目漱石を読む」とか晩年に書かれた軽いものをいくつか読んだことがある。本格的な理論書では「共同幻想論」だけ。本書で取り上げられてゐる初期の論文はひとつも読んだことがない。

鹿島茂さんのガイドが見事なためだ、とても面白く読んだ、吉本隆明は偉い、と感嘆した。「芥川龍之介の死」には衝撃、すごいです。ここで取り上げられた論文がみんな入ってるような論文集とかアンソロジーみたいなものはないだろうか。「芸術的抵抗と挫折」や「自立の思想的拠点」などの初期の単行本は手に入りづらいから。

以下、ノートをば。

 より正確にいえば、吉本隆明が問題にしたのは、左翼的な思考法それ自体よりも、それを誕生せしめる日本の近代社会の構造そのものなのです。吉本は、たんに現象面であれこれと左翼の行動や思想を批判したのではなく、日本的な左翼に特有な思考的ねじれがどこから来るのかを徹底的に考え、最終的には、そのねじれが生ずる社会構造それ自体の把握なくしては、なにも解決しないというところまで根源的な思考を働かせたのです。 48頁

 もちろん、芸術というものが豊富な物質的基礎と、閑暇のうえにしか開花しないものであるとするならば、芸術を志す貧乏息子は、りちぎものの父親の金をだましとっても、ブルジョワ息子を範とするよりほかない。それでは、自分はおよばぬまでも、息子だけはーーという発想をするこの父親は、否定されねばならないか。むろん、そのいじらしい心理が否定されねばならないのだ。

 

 これは、ある意味で、吉本思想の「核」に相当するものです。というのも、「芸術」を「知識」に置き換えれば、そのまま、彼が後に展開する知識人論になりますし、「知の過程論」にもなるからです。つまり、「芸術」や「知識」への上昇というものは一つの必然的な「過程」であって、そこには疚しさや自己嫌悪を感じる筋合いのものではない。だれだっていったんその過程に入ったら、最後まで行き着くほかはないのだ。ところが、なかなかそう簡単に割り切るわけにはいかないから、途中で(とくの親掛かりの学生時代には)、親のスネをかじっていることに疚しさや自己嫌悪を強く感じる。すると、それが今度は逆流してスターリニズム俗流大衆路線やファシズム農本主義になってしまうことにもなる。ゆえに、芸術家や知識人の卵たる学生は、そんな疚しさや自己嫌悪にこだわるよりも、いっそ、ふっきれて大知識人、大芸術家を目指すべきだ、云々。 135頁

 ユース・バルジの世代は、自分たちが、出身階級である下層中産階級を離脱する過程で、本当は、この階級を支える唯一の論理である「自分の得にならないことはしたくない」という欲望を肯定し、それをエネルギーにして社会をつくっていきたいと考えていたにもかかわらず、もう一方では、「そうした欲望ははしたないことではないか?」と脅え、倫理的な負い目を感じていたのですが、吉本隆明は、その懊悩に対して、それはごくまっとうな悩みで、「自分の得にならないことはしたくない」という欲望は即座に肯定さるべきものだよ、と言い切ったからです。

 それはもちろん、この吉本隆明論で何度も繰り返し述べたように、吉本自身が下層中産階級出身の戦前ユース・バルジの世代に当たり、同じような懊悩を抱えた末に、自前の思想を練り上げていったからにほかなりません。

「自分の得にならないことはしたくないだって? 当たり前だよ、その欲望を肯定するところに民主主義が生まれ、否定するところにスターリニズムファシズムが生まれるのさ」

 思い切り乱暴に言ってしまえば、吉本はこう断言したのです。 354-355頁