手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「光と風と夢」「北方行」等 中島敦

中島敦全集 1」「中島敦全集 3中島敦 ちくま文庫 1993

中島敦の主要作品は「ちくま日本文学」シリーズの12巻に収録されてゐる。ぼくはその中島敦選集が好きで、たぶん3回くらい通読してゐる。漢文調の文体、高い倫理観、気品のある詩情、異国情緒、すべてが最高でときどき読み返したくなる。

今回、その選集に未収録のものも読んでみようと思い立って、全集の1巻と3巻を借りてきて、気になったものをいくつか読んでみた。いづれも素晴らしかった。こういう見事な文章を読むだけで幸せな気持ちになる。やっぱり文学はいい。

以下、簡単にノートをば。

1巻

「斗南先生」

斗南先生とは中島敦の伯父。「狷介にして善く罵り、人をゆるすことを知らなかった」伯父を回顧した自伝的短編。

(・・・)即ち、伯父の奇矯な行動は、それが青年の三造にとって滑稽であり、いやみであると同じ程度に、彼よりも半世紀前に生れた伯父自身にとっては、極めて自然であり、純粋なものであるということが、彼には全身的に理解できなかったのである。伯父は、いってみれば、昔風の漢学者気質と、狂熱的な国士気質との混淆した精神ーーー東洋からも次第にその影を消して行こうとする斯ういう型の、彼の知る限りでは其の最後の最も純粋な人達の一人なのであった。このことが、その頃の彼には、概念的にしか、つまり半分しか呑みこめなかったのである。 56-57頁

若い時分には理解できなかった奇矯な伯父を、いまならもう少し深く理解できる。伯父は確かに前時代の人間のある型を象徴してゐた。当世、彼のような人間は容易に生きられない。

敦は自分がこの伯父と似た性質をもつことを強く自覚してゐる。だからその人格的欠点がよくわかり、その生涯の寂しさと心細さとが身に染みる。昔こういう人がゐたんですよ、というだけの小さな鎮魂の文学。

「虎狩」

敦が少年時代を過ごした大日本帝国支配下の朝鮮が舞台。朝鮮人の友人・趙大煥との交流を描く。

趙の父親は元来昔からの家柄の紳士で、韓国時代には相当な官吏をしていたものらしい。そうして、職を辞した今も、いわゆる両班で、その経済的に豊かなことは息子の服装からでも分った。 110頁

つまり趙大煥は朝鮮の名士の息子ということになる。大日本帝国の支配が、彼の人格と人生にどのような影響を与えたか。小学生時代の思い出を通じて、その屈託が見事に描かれてゐる。虎狩での次の描写など凄い。

 私を驚かせたのはその時の趙大煥の態度だった。彼は、その気を失って倒れている男の所へ来ると、足で荒々しく其の身体を蹴返して見ながら私に言うのだ。

 ーーーチョッ! 怪我もしていないーーー

 それが決して冗談で言っているのではなく、いかにも此の男の無事なのを口惜しがる、つまり自分が前から期待していたような惨劇の犠牲者にならなかったことを憤っているように響くのだ。そして側で見ている彼の父親も、息子がその勢子を足でなぶるのを止めようともしない。ふと私は、彼等の中を流れている此の地の豪族の血を見たように思った。そして趙大煥が気絶した男をいまいましそうに見下している、その眼と眼の間あたりに漂っている刻薄な表情を眺めながら、私は、いつか講義か何かで読んだことのある「終りを全うしない相」とは、こういうのを指すのではないか、と考えたことだった。 120ー121頁

「光と風と夢」

「宝島」「ジキル博士とハイド氏」を書いたスティーヴンソンのサモア島での生活を日記体および評伝体の混合スタイルで描く。南島の風俗、自然、土人達の文化が興味深い。そして異国に生き、遠くない死を予感した作家の魂の独白が鮮烈。

例えば次の箇所。巨大な雲の荘厳さに圧倒される場面。

 夕方六時頃、馬で裏の丘を下りようとした時、全面の森の上に大きな雲を見た。それは、甲虫の如き額をした・鼻の長い男の横顔をはっきり現していた。顔の肉にあたる部分は絶妙の桃色で、帽子(大きなカラマク人の帽子)、髭、眉毛は青がかった灰色。子供じみた此の図柄と、色の鮮明さと、そのスケールの大きさ(全く途方もない大きさ)とが、私を茫然とさせた。見ている中に表情が変った。たしかに片目を閉じ、顎を引く様子である。突然、鉛色の肩が前にせり出して、顔を消して了った。

 私は他の雲々を見た。はっと思わず息をのむばかりの・壮大な・明るい・雲の巨柱の林立。それ等の脚は水平線から立上り、其の頂きは天頂距離三十度以内にあった。何という崇高さだろう! 下の方は氷河の陰翳の如く、上に行くにつれ、暗い藍から曇った乳白に至るまでの微妙な色彩変化のあらゆる段階を見せている。その背後の空は、既に迫る夜のために豊かにされ又暗くされた青一色。その底に動く藍紫色の・なまめかしいばかりに深々とした艶と翳。丘は、はや日没の影を漂わせているのに、巨大な雲の頂上は、白日の如き光に映え、火の如く・宝石の如き・最も華やかな柔かい明るさを以て、世界を明るくしている。それは、想像され得る如何なる高さよりも高い所にある。下界の夜から眺める。其の清浄無垢の華やかな荘厳さは、驚異以上である。

 雲に近く、細い上弦の月が上っている。月の西の尖りの直ぐ上に、月とほとんど同じ明るさに光る星を見た。黒み行く下界の森では、鳥共の疳高い夕べの合掌。 187-188頁

屋根を叩く猛烈な雨。簾を通して雨粒が顔にはねる。それが心の中にある何かを呼び起こす。

 私はヴェランダに出て、雨垂の音を聞く。何かおしゃべりがしたくなる。何を? 何か、こう苛烈なことを。自分の柄にもないことを。世界は一つの誤謬であることに就いて、など。何故の誤謬? 別に仔細はない。私が作品を巧く書けないから。それから又、大小様々の、余りに多くの下らないうるさい事が耳に入るから。だが、其の、うるさい重荷の中でも、絶えず収入を得て行かねばならぬという永遠の重荷に比べられるものはない。いい気持ちに寝ころがって、二年間も制作から離れていられる所があったら! 仮令それが癲狂院であっても、私は行かないであろうか? 224-225頁

3巻

「北方行」

唯一の長編小説、といっても途中で放り出してしまったらしく未完である。なるほど確かにまとまりを欠いた印象を受ける。自分の分身と思われる登場人物の語りがしばしば際限なく続いて間延びする。けれど、十分に面白い。

大日本帝国時代の満州が舞台であるというのがまづよい。また通俗的な情事、淫靡な展開がそそる。もっと読みたいという気持ちになった。未完で終わってしまったことを惜しむ。次の箇所には泣きそうになった。

 美代子と同棲して半年にもならない中に赤ん坊は風邪から肺炎になって三日の中に死んでしまった。死ぬ半月ほど前のことだった。外から帰って来た伝吉が家の前まで来て、ひょいと見上げると古い煉瓦建の二階の窓から赤ん坊の胸から上だけがのり出して見えた。世話を頼んである下の女は何か用足でもしているのであろう、一人ぼっちで外を眺めているらしかった。母親のいない淋しさには慣れっこになってはいるものの、それでもやはり何かを待っているような恰好で、目はずっと遠くへむけている。家の前には郊外の白菜畑が寒々とひろがり、秋の暮の曇った空を連なっている。その空とも遠くの畑ともつかぬあたりを赤ん坊は眺めていた。毛編の白い帽子をかぶり、窓枠の上に出した右手にはセルロイドのガラガラを持って、伝吉が下に来たことにも気がつかずに放心したようにじっと見つめている。その澄んだ眼付には「何故自分と遊んでくれる人がないんだろう。自分はこんなに待っているのに」といった淋しい諦観が凍りついているように見え、伝吉は、此の子が死んでからも、この時の恰好と目付とが思出されて仕方がなかった。 229-230頁

「李陵」「弟子」の中島敦がこういう文章を書いてゐたことに驚いた。短編とはまったく異なる種類の文章だ。面白い。

「プウルの傍で」

これも中絶されたもの。「北方行」と同じく、感傷に流れすぎる嫌いがあって、まとまりをもった構成として結実しない印象を受ける。失敗作とはこういうものかという感想をもつ。習作を書き、失敗作をいくつも残し、ようやく「名人伝」や「山月記」や「文字禍」を書く作家になるのだな。完成された作品を読んでゐるからこそ、作家を愛してゐるからこそ、このような失敗作もまた愛おしく感じる。

 水の上に軽く浮いていた彼の気持を、回想が快くゆすった。彼は眼をうすくあけて真上に拡る夕方の空を見た。少年の日の青空は、今見上げる空よりも、もっと匂やかな艶がありはしなかったか? 空気の中にも、もっと、華やかな軽い匂いがあったのではなかったか? 思出したように吹いてくる風は、時々、濡れた顔を心地よく撫でて行った。三造は、旅の疲れのものうさと、帰郷の心に似た情緒との交わった甘酸っぱい気持で、長々と水の上に伸びをするのであった。 282頁

「セトナ皇子」

ああ、これは楽しい古代モノ。そのうち「傑作になりそこねた」やつだな。とてもかわいらしい掌編。

(・・・)古書を拡げている中に、ひょいと或る不安が彼の心を掠めた。はじめは、その正体がわからなかった。何でも彼の今迄蓄えた全智識の根底をゆるがせるような不安である。何を考えていた時に、そんな奇怪な陰が過ったのか? 彼はたしか、最初の神ラーの未だ生れない以前のことを読み、且つ考えていた。ラーは何処から生れたか? ラーは太初の混沌ヌーから生れた。ヌーとは、光も陰もない、一面のどろどろである。それではヌーは何から生れたか。何からも生れはせぬ。初めから在ったのである。此処迄は、子供の時からよく知っている。しかし、今、古書をひろげている中に、妙な考えが浮かんだ。初めにヌーが何故あったか? 無くても一向差支えなかったのではないかと。不安の因になったのは、これだった。この考えが浮んだ時、奇怪な不安の翳が、心を掠めたのである。 324頁

「妖氛録」

これも楽しい。「傑作になりそこねた」中国古代もの。男を狂わす女と女に狂わされた男達のお話。女は妖怪のごとく、無自覚にも、その魔的な魅力によって男を虜にしてしまう。男のほうもなぜ自分が夢中になるのか、狂ってしまうのか、よくわからない。この呪術的世界観が好き。人間の分からなさ、運命の前での無力さ。中島敦的主題。

(・・・)此の女程、与えられたものに従順な者は無い。それでいて、何時の間にか、自らも意識することなしに、その与えられたものを狂わし、濁らして了うのである。 331頁