「13th -憲法修正第13条-」2016 アメリカ ネットフリックス作品
監督:エイヴァ・デュヴァーネイ
ネットフリックスの会員ではないのだけれど😿、YouTubeに無料公開されてゐたから見ることができた。
見てよかった。
あらゆる物事には歴史的背景と構造的要因がある。それに対する理解をなおざりにしてゐるときっと事の本質を見誤る。そのように感じた。
それはこの映画の主題であるアメリカの黒人差別以外についても言えることだ。
何事も歴史的背景と構造を抜きにして語れない。
ぼくは日本における朝鮮人嫌悪を思う。
ある人が「朝鮮半島があれほど長く分断されてゐて統一できないのは不思議なことだ。やっぱりあの人達には何か問題があるんだ」と言った。
その口調は明らかに侮蔑的な心持ちを反映してゐた。
その人はまた「日本のように一つの王朝(天皇家)が数千年も続いてゐる国は他にない。この事実をしっかり受け止めよう。これは世界に誇るべき日本人の善良な精神を証するものである」というような、他愛ない日本特殊論を真剣な表情で語ってゐた。
この他愛のない愛国心がどうかすると優勢思想や差別主義と結びついてしまうからおそろしい。
アメリカの黒人差別は以前として深刻だ。しかしそれはアメリカの白人が際立って残忍であるからではない。
朝鮮半島では分断が続いてゐる。それは朝鮮族の人たちが際立って愚鈍であるからではない。
なるほど天皇家は長いこと続いてゐるが、そこからヤマト民族が特別に善良であると導きだすのは無理がある。
同様に、大日本帝国はたいへん酷いことをしたが、日本人が他国民より抜きん出て凶悪な人達であるとは言えない。
何事も歴史的背景と構造を抜きにして語れない。国民性や民族性のようなものはあるにしても、それは「傾向」以上のものではないだろう。その「傾向」がさまざまな状況と構造において、しばしば極端な事象を発生させるだけだ。
差別も強姦も虐殺も、どこにでもある。よくある話だ。人類は普遍的に愚かである。
が、社会を運営し秩序を維持するために「民族」や「国家」や「宗教」や「肌の色」といった仮想的な、また恣意的な分節化が必要となる。
この差別化された認知が、やがて「普遍」という視座を覆ってしまう。
昨今の世界的な政治状況の混乱、排外/差別主義的な勢力の興隆を見ると、ぼくは「人類の政治力の限界」ということを考えてしまう。
「普遍」と「個別」をバランスよく保って政治を行うための思惟形態を、ついぞ人類は獲得できないのだろうか。
いま、あまりに「普遍」が弱くなりすぎてゐる。