一
井上ひさしの「天保十二年のシェイクスピア」が再演されると知り、長いこと積読にしてゐた福田恒存翻訳全集のシェイクスピアを読もうと決意。
第四巻から第七巻までがシェイクスピア篇となってゐて、全部で19作品入ってゐる。
「天保十二年のシェイクスピア」は天保水滸伝を縦糸に、シェイクスピアの全作品を横糸に織り込んだ作品。
日本の語り物の伝統と、シェイクスピアの天才と、井上ひさしの魔術的日本語表現を同時に堪能できる、無類に面白い、大傑作だ。
最初の作品は、「リチャード三世」。
べらぼうに面白い。
「天保十二年のシェイクスピア」の主人公・佐渡の三世次のモデルはリチャード三世だったのだな。井上は、概してこの作品からたくさんの場面を取り入れてゐるようだ。
二
リチャード三世(1452~1485)はバラ戦争最後の王。
バラ戦争とは、王位継承をめぐるランカスター家とヨーク家の争いであり、リチャード三世はヨーク家に属する。
リチャード三世が死に、ランカスター家のヘンリー七世が即位する。そしてヘンリー七世はリチャード三世の兄・エドワード四世の娘・エリザベスと結婚。
これで両家が結ばれて、バラ戦争の終結ということになる。
人物の相関がなかなかに複雑であるから、英国史に明るくない場合は系図などをこまめに参照していかないと混乱する。
おまけに、同じ名前の人間がやたらに多い。
リチャードも、ジョージも、エリザベスも、同じ名前をもった人物が二人とか三人とかでてくるのである。
だから読んでゐて、「おまえもリチャードか!?」とか「おまえはどのエリザベスなんだよ!」となる。
上記リンク先などの記述を読み、ある程度の流れをつかんでおかないと楽しみが半減するかそれ以下になってしまう。
ちなみに、「人名ややこしすぎ」問題はこの戯曲においてギャグとして使われてをり、復讐劇であるこの芝居に喜劇的要素を添えてゐる。
例えば次の台詞などは、爆笑ものである。
マーガレット (進み出て)古い傷の方が尊ばれるのなら、分はこちらにある、さ、私の悲しみを上座に据えておくれ。心の傷にもつきあひといふものがあるなら、(並んで坐りながら)もう一度、お前達の傷あとを数へなほしてみるがいい、この身に受けた痛手とよく照しあはせてな。私にもエドワードといふ子があった、そしてリチャードといふ男に殺された。ヘンリーといふ夫もゐた、それがリチャードといふ男に殺された。お前にもエドワードといふ子があつたな、やつぱりリチャードといふ男に殺された。リチャードといふ子もゐたな、それもリチャードといふ男に殺されてゐる。
三
上のようなオモシロもけっこうあるのだが、本作の最大の魅力は、リチャード三世の異様なまでに魅力的な造形と、彼を中心に展開される、呪いと復讐の応酬だ。
身内を殺されたものが、殺した者を恨み、それを言葉にし、呪う。
呪いが人を動かし、人を殺し、それに対し、また復讐が、呪いによって成就される。
冒頭第一幕 第一場、 主人公リチャードの独白。
ああおれといふ男は。造化のいたづら、出来そこなひ、しなを作つてそぞろ歩く浮気な森の精の前を、様子ぶつてうろつき廻るにふさはしい粋な押出しが、てんから無いのだ、このおれには。あのおためごかしの自然にだまされて、美しい五体の均整などあつたものか、寸たらずに切詰められ、ぶざまな半出来のまま、この世に投げやりに放りだされたといふわけだ。歪んでゐる、びつこだ、そばを通れば、犬も吠える。さうさ、さいうふおれに、戦も終り、笛や太鼓に躍る懦弱な御時世が、一体どんな楽しみを見つけてくれるといふのだ。日なたで自分の影法師にそつと眺め入り、そのぶざまな形を肴に、即興の小唄でも口ずさむしか手はあるまい、口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、さうと決れば、道は一つ、思ひきり悪党になつて見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪つてやる。筋書はもう出来てゐる、けんのんな序開きがな。それ、酔漢の預言めいたたはごと、中傷や夢占ひ、さういふもので、二人の王、王とクラレンスの仲を裂き、たがひに憎みあふやうに仕向けようといふわけだ。
リチャードが言葉たくみに兄弟をだまし、未亡人をたぶらかし、男を殺し、女を手にいれ、権力を掌握するまでの猛烈な野心と行動力には、血が湧きたつような興奮を覚えた。
そして、そのリチャードが裏切りにあい、あっといまに転落し死に至る過程に、強烈なカタルシスを感じた。
福田恒存は解題に次のように書く。
それは既に言つたやうに、この脚本が、単なる復讐劇ではなく、呪ひの儀式であり、その意味で、劇の最も本質的なものの上に立つてゐるからである。個人の意思を超えた大きな運命の流れが作品を一貫してゐて、自分だけはそれから免れてゐると思つてゐる人物達が、次々にその罠に陥り、彼等が意識の外で不用意に洩した言葉が、必ず自分の頭上に降りかかつてくる。そして、自分だけは運命の手から逃れてゐると、誰よりもさう思つてゐるリチャード、いや、人々の運命を操つてゐるのは自分であり、のみならず自分の運命さへ自由に操れると思つてゐるリチャードが、最後に、最も完璧に、自己の破滅を通して運命の存在証明をするのである。さういふ悲劇的アイロニーそのものの表出のために、この劇は書かれてゐるとさへ言へる。その点では、非常に論理的であり、同時に、読者あるいは見物の倫理感や心理をも満足させるものとなつてゐる。
復讐がさらに復讐を生み、呪いがさらに呪いを生む。
それ自体はまことに悲惨な事態であるにもかかわらず、その円環が見せてくれる運命絵巻の荘厳さに圧倒され、宗教的な聖性みたいなものさへ感じさせる、凄い作品だった。