「自分と未来のつくり方」2010 岩波ジュニア新書
東浩紀さんとの共著「新記号論」を読み、石田氏のことを知った。
「新記号論」はもの凄い本だ、ということは分かるのだが、これがたいへんむづかしく、消化不良に終わってしまったので、再読リストに入れた。
次読むときのために、過去の著作を読むことにした。
石田氏の仕事は、以下の「最終講義」に詳しく語られてゐる。
52分あたりからがとても重要である。
以下、少し、書き起こす(ところどころはしょってます)。
メディア問題とは何なのかということ。
30年にわたる研究のなかで、わたしはそのコアとなる問題を「文明のなかにおける居心地の悪さ」という言葉で(フロイトの言葉ですが)呼ぶようになりました。
一番最初にその名前で呼んだのが、2005年のことです。
その中心にあるのは、今みなさんがすべからくそういう状況になった、コンピュータと共にある生活、メディアと共にある生活が、人間が根本の存在の条件になったということです。
そのことを考える。
そのことによって、文明の問題というものが設定されるようになった。
それを考えることを人文学者は今求められている。
今の時代の人文学者はこの問題を考えるために存在していると断言してもいいとわたしは思っています。確信しています。
人文学者は「文字」の専門家です。
「活字」の時代も、人文学者は文字の専門家です。
書物の専門家、文字の専門家です。
今は「文字」が「メディア」という名前をもっているだけです。
「文字」が変容したことによって、文明のなかの居心地の悪さという20世紀以来の人間の問題、「情報」と共にあるという人間の問題というものが提起されるようになった。
「文字」が「メディア」という名前をもっている。
これはどういうことだろう。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、写真、映画、ラジオ、テレビと情報技術が急速に発達し、人間の情報環境は劇的に変化した。
これを「アナログ・メディア革命」という。
氏はこれらのメディアもある種の「文字」であるという。
しかしそれは、これまで人間が読み書きしてきたような普通の文字とは違う。
そしてこのテクノロジーの文字の特徴というのは、人間にはその一文字一文字を見ることができないということだ。テクノロジーの文字とはつまり、たとえばさっき説明したような、映画のコマやテレビの電気信号、写真のとらえる一瞬の光のことです。
僕たちはそういう「見えない」テクノロジーの文字によって書かれている写真や映画やテレビを「見て」、思い出をつくったり、ストーリーを楽しんだり、事実を知ったりしている。だから、「見えない」テクノロジーの文字は、いまでは人間の「見えた」という意識が成立するための条件になっているのだけれど、その文字のひとつひとつは、人間の意識できない無意識の領域にとどまりつづけていることになる。こういうのを、メディアの「技術的無意識」と言います。
人間の心は、意識としてのぼるか否かという境界(閾値)の上下で、コンシャスな部分(意識)とサブリミナルな部分(意識以下、無意識)のふたつに分かれています。写真の発明以後のメディアというのは、人間の心のサブリミナルな部分をつかまえて、人間の意識を動かすことができるようになったということだね。 75-76頁
わたしたちは、まだこの「新しい文字」を使いこなせてゐない。
「新しい文字」に囲まれた新しい環境とはいったいどういうものなのか。
その環境は人間をどのように変えつつあるのか。
そして、そのなかで、どのように自分と未来をつくることができるだろうか。
この本は中高生への講義をもとにして出来上がったものだから、本当に読みやすい。
上記のような本質的な問題が、平易なことばで語られてゐる。
ぼくはたいへん勇気づけられた。
大人も子供もぜひ読んでみてほしい。
上掲の講義によれば、石田氏はこれからたくさん本を書くつもりとのこと。
〈執筆中〉