ご存知、ちびまる子ちゃんの主題歌「おどるポンポコリン」の歌詞に意味のない音節の連なりがある。
タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
呪文のようであるが、魔法使いを呼び出したり傷を治したりするといった目的性はない。ただ音とリズムがむやみに楽しい。さくらももこ氏の天才を示す音節句の傑作と思う。
いま音節句といったのはわたしの造語である。詩句という言葉はあるが、詩にはまだ「意味」が残ってゐる。「ピーヒャラ ピーヒャラ」的なものは意味がないただの音節であることが特徴なので「音節句」とした。
なぜこんな言葉をつくったかというと、わたしが学んでゐるカタックという北インドの伝統舞踊にボル(Bol / बोल)という概念があり、その訳語として考えたのである。
ボルはカタックに限らずインドの舞踊、楽器、ひろく藝能の世界でつかわれる言葉で、「ピーヒャラ ピーヒャラ」的な無意味な音節の連なりを術語化したものである。ボルを覚え、朗誦し、それに合わせて踊る。
無意味な音節の連なりがなにを表現してゐるかというと、リズムである。リズムは根源的な力、うねりのようなもので、時間的にも空間的にも表象される。つまりは耳と目、音と形をつなぐかなめの概念といえる。
簡単なことで、「ピーヒャラ ピーヒャラ」という音節句には、それにぴったりの振付がありますよね、ということである。
この種の例はいたるところに観察することができる。
北斗の拳のケンシロウが拳を放つときは「アタタタタタタターッ! 」であり、ブルース・リーが跳び蹴りするときは「アチョー!」であり、マイケル・ジャクソンがみえを切るときは「アウ!」「チャ!」である。
これらは「ピーヒャラ ピーヒャラ」とは反対に音節句の方が後から出たものと思われるが、どちらが先でも同じことで、「この形にはこの音がふさわしい」という感じがする。それが快を生んでゐる。不思議に楽しい快である。
さて、インド人は古代よりこのリズムの不思議に尋常ならざる関心をもってゐたらしく、リズムを表現する無意味な音節の連なり、すなわちボルを精緻厖大に発達させた。
「ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ」的な連なりを幾層にも重ね、細かな休止を入れ、節をつけ、リズム構造をつくる。そしてリズム構造にふさわしい振りを踊るのです。
とすると、上手に踊るためには精確なリズム把握と、精確なリズム把握に基づく正しい朗誦が必須ということになる。ボルの朗誦がうまくなると、それだけ踊りのレベルも上がる。
そこで問題となるのが「音節」です。
「音節」はそれぞれの言語に固有のものであり、訓練を経なければ母国語以外の言語の音節を聞き分け言い分けることができません。口の形と、そこから出る音の違いを覚えて初めて「Late」と「Rate」を区別できる。
日本語は書記においては最高難度の言語ですが、発音においては最低難度の言語として知られてゐます。つまり日本人が通常聞き分け言い分けてゐる音の種類はきわめて少ない。
また開音節構造(「子音+母音」または「母音のみ」で構成される)という大原則があり、子音が連続したり、子音で終ったりすることがないため、日本語の音節はどう並べても平板になります。(百人一首の朗誦など思い起こしてください)
そのような単純な音韻体系であるため、日本語をあらわすかな文字は音節が単位になってゐる。つまり「か」「な」を「Ka」「Na」と子音・母音が見えるよう分析的な書き方をしません。組合せが限定されてゐるのでそれで十分なのです。
ところが英語やヒンディー語(インドの言葉)は音韻がより複雑にできてゐますから、文字の単位が音節ではなく音素で、それをつなげて音節(シラブル)を表現し、音節を並べて語をあらわします。
ややこしくなりましたが、要するに、ある文化体系のなかで文字と音と身体はつながってゐると言いたいのです。
今年、そのことを痛感しました。
わたしはカタックをインドの先生に習ってゐます。さまざまなレパートリーを習うのですが、わたしは当初すべてのボルをかな文字で書いてゐました。ところがしばらくして不満足を感じるようになり、英語のアルファベットで書くことにした。
そうして今年、それでも不十分と思い、デーヴァナーガリー文字(インドの文字)で書き始めた。これまで習ったすべての音節句と詩句をデーヴァナーガリー文字で書き改め、最初からノートをつくり直すことにしたのです。
異国の文字と音を、それもある程度年齢を重ねてから習得するのは難儀なものですが、奮闘のすえ、わたしはおおよそヒンディー語の音を聞き分け、それをデーヴァナーガリー文字で写せるようになりました。
書きながら、繰り返し朗誦する。するとボルがまるで異なる表情を見せ始めた。文字が違うのですから表情が違うのは当り前ですが、むろんここで表情というのは形だけでなくリズムのことをも指してゐる。
デーヴァナーガリー文字で書くプロセスにより、別次元の解像度でリズムを把握できるようになった。そのとき、ダンスもまた上達したことを瞬時に感じました。机に座ってカリカリ文字を書いてゐたらダンスが上達したわけです。これには感激しました。
文字(形)=音(リズム)=身体(形)という連環がある。
ここでみづから驚くのは、わたしは舞踊に熱中する以前より、仮名遣いの問題に強い関心をもってきたということです。
仮名遣い問題とは「みずから」と「みづから」どちらで書くか、文字と音がずれてしまったときにどうするかという問題のことです(詳細は「日本語表記と歴史意識」をお読みください)。
つまりわたしはかつて文字と音との関係に熱中し、いま音と身体の関係に熱中してゐる。形と音の関係という点では同じことをやってゐる。
文字(形)=音(リズム)=身体(形)という連環において、自分の中で仮名遣いと舞踊がつながった。こんなことがあるのかという感慨の中で、年の瀬を過ごしてゐる。
と、最後、唐突に宣伝になりますが、こんな切り口から舞踊について語れるのがわたしの売りです。ぜひ、舞踊教室「江戸川カタック社」に遊びにきてください。
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どうぞよろしくお願いします。
それではよい年をお迎えください🎍