手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

運と仕合せ

芥川龍之介全集を読んでゐる。

芥川は「幸せ」を「仕合せ」と書く。いまでは見られない表記だ。用法もまた現在とは異なる。ぼくたちがふつう「幸せ」といったら、良いこと、幸福、ハピネス、つまり誰もがそうなりたいと思うような肯定的な価値を認められた状態を指す。しかし芥川は必ずしもそうではなく、しばしばただ「めぐりあわせ」や「運」を意味することばとしてつかってゐる。

大辞林で「しあわせ」を引くと、最初に「めぐりあわせがよいこと、幸運、幸福」とあり、次に「めぐりあわせ、運命」とある。岩波古語辞典で「しあはせ」を引くと、まづ「物事の取りはからい」とあり、次に「めぐりあわせること。運。善悪いづれについてもいう」とあり、三番目に「特に、幸運」が置かれ、あわせて「仕合せ次第(運の向くままになること)」や「仕合せ吉し(運のよいこと)」という複合語が示されてゐる。

古語において「しあはせ」は主として善も悪も含めためぐりあわせ、あるいは運そのものを意味してゐた。芥川は「しあはせ」を「仕合せ」と書き、善悪の価値判断から離れた「めぐりあわせ、運」という意味と、善であり良である「幸運、幸福」という意味と、二様につかいわけてゐる。

「きりしとほろ上人伝」はキリシタンものを代表する傑作である。巨大な体躯をもつ素朴な山男「れぷろぼす」が功名手柄をあげようとまづ帝につかえる。次いで悪魔に、そして隠者につかえ、最後にイエスと出会う。場面転換のたびに、

「さてその後「れぷろぼす」が、如何なる仕合せにめぐり合うたか、右の一条を知らうず方々はまづ次のくだりを読ませられい。」

という文句が挿入される。

「きりしとほろ上人伝」

ここで「仕合せ」は、明らかに良い悪い関係なしの「めぐりあわせ」を意味してゐる。実際、「れぷろぼす」がたどる運命は一般的な意味で幸福とか不幸とか判断できないようなものである。ただ生きた、その結果として、彼はイエスと出会う。まさにめぐりあわせである。

その名もずばり「運」と題された小説を参照すると、「しあはせ」の二つの用法の違いが鮮やかとなる。清水寺へ通う往来での青侍と翁(陶器師)との会話。青侍は「観音様にお参りすると本当に運をさづけてくださるものかね」と問う。翁は「そんなこともあつたやうに聞いてをります」と応え、「いつもの昔話」をする。

観音様へ願をかけた女の話である。女は盗人に手籠めにされるが、隙をついて世話人の老婆を殺して逃げる。後に盗人にもらった綾と絹を元手にして財をなし、いまでは何不自由のない身の上になってゐる。

その運の善し悪しの解釈が青侍と翁で異なり、互いに不満に思う。青侍は「女は仕合せ者だ」と言い、翁は「さう云ふ運はまつぴら」と言う。

「運」

青侍は運をさづけられることを幸福になることだと考えてゐる。盗人の妻になったことも、人を殺したことも、したくてしたのでないのだから仕方がない。最終的に物持ちとなれたのだから女は幸せ/仕合せ者ではないかと。

物持ちになった先の仕合せがどうなるか分らないし、途中で殺されることだってありえた。それに強姦や殺人をそうやすやすと内的に処理できるはずがない。若い侍はそこまで思い及ばない。結果として、いま金がある、そういう幸福しか頭にないのである。

若者はめぐりあわせの不思議さも、人間は変わるものだということも、人生は常に途中であることも知らない。だから翁の話は青侍に通じない。なるほど翁がはじめに断っておいたとおりだ。

「神仏の御考へなどと申すものは、貴方がた位のお年では、中々わからないものでございますよ。」