「世界は贈与でできている」近内悠太 NewsPicksパブリッシング 2020
人は一人では生きていけない。他の人と深い関係を結び、社会をつくって生きる。人から信頼され、見返りを求めずに助け合える関係性を築くためには、「他者からの贈与を受けられる主体」「他者に贈与できる主体」にならねばならない。
けれども贈与を起動させること、贈与の連鎖のなかに入ることは容易ではない。作為が入り込むと贈与ではなくなってしまうからだ。
自分がそこから何かを得たいという腹があるなら偽善であるし、善意を押しつけて返礼を強要するなら呪いとなる。それは贈与のかたちをした交換だ。
交換は意志して行うことができ、いまここで成立するものである。
贈与は計算不可能で、偶然成立する、「未来にあると同時に過去にある」ものである。
贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する。
これは本書の贈与論において、決定的に重要な主張です。
そして、倫理と知性はどちらが先かと問われれば、それは知性です。
つまり受取人のポジションです。
なぜなら過去の中に埋もれた贈与を受け取ることのできた主体だけが、つまり、贈与に気づくことのできた主体だけが再び未来へ向かって贈与を差し出すことができるからです。その主体は「もし私が気づかなかったら、この贈与は存在しなかった」ということを痛いほど理解しています。つまり、「この贈与は私のもとへ届かなかったかもしれない」と直覚できているからこそ、今から差し出す贈与も他者へと届かない可能性が高く、届いてくれたならこれほど素晴らしいことはないと分かっているからです。
この贈与は私のもとへ届かなかったかもしれない。
ということは、私がこれから行う贈与も他者へは届かないかもしれない。
でも、いつか気づいてくれるといいなーー。
かつて受取人だった自身の経験から、そのように悟った主体だけが、贈与が他者に届くことを待ち、祈ることができるのです。 113-114頁
贈与の肝は「宛先」が初めにあることである。受取人がゐなければ贈与は成立しない。だから、贈与はそれが贈与であるならば、宛先から逆向きに、差出人にも与えられることになる。贈与者は存在を肯定され、生命力を受け取る。
「宛先としてただそこに存在する」という贈与の次元があるのです。
僕らは、ただ存在するだけで他者に贈与することができる。
受け取っているということを自覚していないくても、その存在自体がそこを宛先とする差出人の存在を、強力に、全面的に肯定する。 235頁
贈与は受取人の想像力から始まる。自分は不当に受け取ってしまった、誤配を受け取ってしまった。起点はこの自覚にある。この自覚から始まる贈与の結果として、偶然、宛先から逆向きに、仕事のやりがいや生きる意味を与えられる。