手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「多重都市デリー 民族、宗教と政治権力」荒松雄

多重都市デリー 民族、宗教と政治権力」荒松雄 1993 中公新書

すごい湿気だ、頭が痛い。ノートをば。

デリーは四つの区画に分けるのが便利 19頁

1、旧シャージャハーナーバード。ムガル五代皇帝シャー・ジャハーン(在位1626~58)が造営した大城市の地区で、ニューデリーの北方にあたる。通称「オールドデリー」、ムガル大城市を中心とする旧市街のこと。当時の城砦都市の面影を残す。

2、ニューデリー。二十世紀に入って「インド帝国」首都の官衙地区を中心として建設された地区。旧シャージャハーナーバードの南南西に造られた整然たる道路網を持つ計画都市区域で、独立後もそのままインド連邦の首都デリーの中心地域となった。

3、旧シヴィル・ラインズ。二十世紀の新都市計画区域ニューデリー建設の間に、一時首都機能を移した地区で、いわば「オールド・ニューデリー」。デリー西側を南南西に走る低い丘陵、通称「リッジ」の北西側に設けられた「カントンメント(軍営地区)」。アングロ・インディアン風の雰囲気が今も残る。

4、周辺の新興住宅地。ニューデリーの南郊地域や、西側のリッジ地帯を中心に生まれた新興住宅地を主とする独立後の新開発地域。近代的な多層住宅群の他に、学術上重要な諸施設が設けられてゐる。南部にはムガル帝国以前のデリー諸王朝の城砦都市の跡が各地に残る。

中世のデリーを感得できる「メヘローリー」

デリー南郊、クトゥブ・ミナールやクトゥブ・モスクが立つ旧ラーイー・ピタウラー城砦の周辺地域には、大小のモスクや墓建築、聖者の墓、バーオリー(階段井戸)など、サルナット期からムガル末期に至る時代のさまざまな建造物が残ってゐる。

 クトゥブ遺跡群やムスリム支配初期の遺跡を訪ねているうちは、まだいい。だが、メヘローリーの町中にあるクトゥブ・サーヒブ廟の南の外れにあるムガル帝室墓地や、隣接するムガル王宮にまで足を運べば、身体の中を冷たい風が吹く抜けるような思いになる。「ムガルの憂愁」をこれほどまでに実感させる遺跡は、他にはあるまい。十五代皇帝シャー・アーラムⅡ世は、登極後の十年間はアラハーバードで過ごすことを強いられたがデリー帰還後もマラーター勢力に抑えられ、先先代と同様に盲目にされた上でラール・キラに幽閉された。死後は、右に記した帝室墓地内の、同じ称号の七代皇帝が眠る墓の傍らに埋められた。 77-78頁

ちなみに、ハルジー朝初期に造られたクトゥブ・モスクの囲壁の門、通称「アラーイー・ダルワーザ(アラーウッディーンの門)」の壁面に残るアラビア文字の刻文や文様は、当時の彫刻の技術や美的感覚の特徴を表している。 143頁

クトゥブ・ミナール(1200年頃建立)。アラビア文字のカリグラフィー。クトゥブは軸、柱といった意味で、スーフィズムで「完全な人」を意味するそうな。

三人のスーフィー指導者

サルナット(スルターン政権)初期から、デリーでは、イランに起源を持つチシュティー派のスーフィー達が活動した。デリー地域の支配層や民衆に影響を与えた最初の人物は、シェイフ・クトゥブッディーン・バフティヤール・カーキー(1236没)。最大の人気を獲得したのがシェイフ・ニザームッディーン・アウリヤー(1325没)。彼の有能な後継者となったのがシェイフ・ナスィールッディーン(1356没)。

いわば「デリーの三聖」とも言えるこの三人のスーフィー指導者は、死後にそれぞれの修道場の地に墓が造られたが、それらは「ダルガー(聖廟)」として、インド亜大陸全域のムスリムばかりか、一部のヒンドゥーまでもが巡礼する著名な聖地となって今日に至っている。 147頁

ムガル末期のウルドゥー文学

ヴィクトリア女王が即位した1837年、ムガル帝国の最後の皇帝バハードゥル・シャーⅡ世もまた帝位に着いた。帝国は内外の諸勢力に攻められ、かつての繁栄はない。実質的にはイギリス帝国の傀儡となってゐる。このような衰退期において、皇帝やムスリム支配層が関心を向けたのは信仰、とくにスーフィズムと、ウルドゥー文学だった。バハードゥル・シャーⅡ世は自らスーフィー修道を心がける一方で、ヒンドゥー教徒とも接触を保ち、廷内ではホーリーやディワーリーなどのヒンドゥーの祭りも行われた。

帝国の最盛期に発展したインド・イスラム文化の諸要素は、権力衰退の道を辿り始めたムガル後期のデリーでいわば爛熟期を迎え、西欧文化の浸透とは別の面で最期の華を咲かせたと言えなくもない。それに関連してひと言紹介しておきたいのは、アラビア文字を使いペルシア語彙を混ぜたウルドゥー文学で、インド・イスラム文化の中心地デリーでも見事な結晶を結んだ。なかでも、ミルザー・ガーリブ(一七九七ー一八六九)は、ムガル宮廷に入って支配層の間に大きな影響を与えた。ムガル最後の皇帝自身、「ザファル」の号で知られたすぐれたウルドゥー詩人で、彼のガザル(ウルドゥー抒事詩)は、師とされるゾウクやミルザー・ガーリブの作品とともに、ウルドゥー文学史上に残る名作と言われている。 200ー201頁

バハードゥル・シャーⅡ世の最期

1857年にインド大反乱セポイの乱)が起り、インド人スィパーピー(傭兵)はデリーのムガル王城ラール・キラに入った。反乱兵がバハードゥル・シャーⅡ世(82歳)にその意図を説明し、彼の加護助成を求めた時、皇帝は言った。

「朕は一介の托鉢僧に過ぎぬ。朕には今、軍隊もなく、弾薬もなく、財力もない。今の状態では、朕は誰に与することも出来ぬ」205頁

実にいい。この滅びの感覚が好きだ。やがてイギリス軍側が勢力を回復し反乱は抑えられた。老皇帝はイギリス側に捕えられ、ラール・キラ内のディワーネ・ハース(内廷謁見の間)で裁判にかけられ、ラングーン(現ヤンゴン)への流刑が決った。そうして1862年、客死、ここにムガル帝国は消滅した。