手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「世界のダンスー民族の踊り、その歴史と文化ー」ジェラルド ジョナス

世界のダンスー民族の踊り、その歴史と文化ー」大修館書店 2000

原著(1992):ジェラルド ジョナス 翻訳:田中祥子、山口順子

世界中のダンスについて詳述された大変有用な本だ。

インド舞踊ではバラタナティヤムとカタカリについてかなり豊富に記されてゐるが、カタックについての言及はほぼない。

これはなかなか興味深いことだ。カタックは本書が執筆された1992年の時点でそれなりに世界に知られてゐたと思うが・・・

まあいいさ。情報が少ないということは「調べ甲斐がある」ということだ。

甲斐は快である(`・ω・´)キリッ

イスラーム社会でのダンス(モロッコなど)について記述する流れの中で「カターク」として出てくる。

 地中海のダンサーの歴史は、確かにイスラム教より古い。エジプトのファラオの時代から墓の絵にダンスの先駆者を見ることができる。1世紀のイベリア半島のローマ植民地であったカディスのダンサーは、太ももを震わせて床に沈み込む活力溢れるダンスで知られている。527年、踊り子がユスティニアヌス帝と結婚してセオドーラ皇后となり、西ローマ帝国を2人で治めた。イスラム教が伝来した前後から、踊り子はペルシアの宮殿に常にはべるようになった。イスラム教徒が中央アジアから来てムガール帝国北インドに建てたとき、踊り子を躍らせることを好み、後に「カターク」として知られる踊りのスタイルを生み出した。女性の身体を公に露わにすることを正統派のイスラム教徒は賛成しなかったが、若い踊り子が売買される伝統は北アフリカで栄えた。 115頁

(☝のセオドーラはテオドラですか、知らなかった。)

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117頁の図。

☝の図には次のような解説が添えられてゐる。

中央アジアから来たイスラム教徒が北インドムガール帝国を建てたとき、民衆は踊り子を連れてきた。1588年のムガール帝国の細密画は(右図)、王子をもてなす踊り子。

ぼくははじめ、

イスラム教徒が中央アジアから来てムガール帝国北インドに建てたとき、踊り子を躍らせることを好み、後に「カターク」として知られる踊りのスタイルを生み出した。》

という箇所を読んだとき、あれ通説と逆だなと思った。

ムガル期のカタックの形成過程についてもっとも通用してゐる説明は、インド北部にもとゐたカタカ(語り部舞踊家)が、イスラームの侵略後に従前通りヒンドゥー教寺院で活動できなくなり、支配層に庇護されるかっこうでイスラーム宮廷へと活動の場所を移し、そこでインド・イスラームが融合した独特なダンス形態を生み出した、というものだ。

逆だなと思ったというのは、つまり、侵略者たるイスラーム勢力が西から踊り子を一緒に連れてきたのだと読んでしまったのだ。けれど、読みなおすとやはり通説と同じ内容で、ぼくが最初に読んだときの驚きは誤読によるものだったのだな。

しかしこの誤読はぼくを考えさせた。誤読のとおりに、西から踊り子をつれてきたということもあったのではないかしら。西方からの踊り子と元からゐた現地の踊り子との交際。

☟の動画は、カタックの起源はウイグル民族のダンスだと言ってゐる。

「われこそ起源だ」という名乗りは総じて信用できないものであるから、これをそのまま是とするわけにはいかないにしろ、文明の変遷と民族の移動を考えると、そういう要素もなかったとは言えないと思う。

カタカも、西方の踊り子も、ウイグル系の人たちも、カタック形成においてみな一定の役割を果したに違いないのだ。

誤読というものも、してみるものだなと思いました。

以下、メモ。

  インドでは神々が踊る。ヒンドゥー教の偉大なる神シバは、破壊と創造をつかさどる神であり、インド全土で崇拝されている。シバは、ナタラージャ(舞踏の神)という別称を持ち、踊りによって宇宙を創造したとされている。宇宙創造のときのシバの姿(4本の腕をもつシバが炎に囲まれているところ)の彫像を南インドの寺院や民家のほこらに見ることができる。片手に、宇宙の創造を促す太鼓を持ち、もう一方には破壊と再生のシンボルである火の球を持っている。地上にはびこる無知な鬼どもをふみつぶすため、右膝を地に着け、信者の抱える浮き世の悩みごとをふり払うため、左足を前へ振り上げている。

 ヒンドゥー教の舞踊神は、シバだけではない。ビシュヌも、またヒンドゥー教の偉大なる神である。ビシュヌは世界が危機にさらされるとき、人間の姿をして人びとを救いにくるという。ラーマとクリシュナは、ビシュヌの化身として崇拝されている。クリシュナは、笛をもつ神であり、踊りと関係が深い。クリシュナと村の乳しぼりの女の恋物語は、官能的な踊りを神に捧げるという伝統を生んだ。 36頁

(・・・)インドの哲学者や宗教指導者たちは、自然と人間とのかかわりについて、長いあいだ激しい議論を交わしてきた。そして見掛けと真実、善と悪、義務と欲望、精神と肉体などについて、それぞれ宗派ごとに異なる結論を出してきた。だが、どのグループの考えにも最低二つの共通点がある。万物はもともと一つであるということと、人生の意味を考えるならこの人生から目を逸らしてはいけないということである。万物は究極的には一つであるという主張は、ヒンドゥー教の身体観をも決定した。肉体は霊的悟りのじゃまになるどころか、人は肉体を使って偉大なる洞察や理解に達することができる、インドでは神が踊る。踊る肉体が快楽の源であるとともに、祈りの手段であることはあたりまえのことなのである。 56頁

(ナーティヤ・シャーストラによれば)本来の舞踊劇は、人間や神々の真の姿を見せ、弱きものを強くし、逞しいものにはより勇気を与え、愚か者は教を、学者には知を与えるものでなくてはならないという。

 このような高い理想を果たすためには観客の心理状態を高揚させなくてはならない。ありふれた、つかのまの情緒を喚起するだけではなく、万人の経験に共通な「宇宙化された」感情を引き出さなくてはならない。そのような感情をラサと呼ぶ(サンスクリット語で、味わい、または果汁という意味である)。『ナーティヤ・シャーストラ』の中のラサ(情調)は8つに分類される。愛、ユーモア、哀愁、怒り、英雄的な感情、恐怖、嫌悪、驚き、である(後に解説者たちは、9つめのラサ、心の平和をつけ加えた。この9つめはほかのすべてを包含する)。

 劇のねらいは、観客の心にラサを起こすことである。33に分類されるそのほかのはかない感情(落胆、悩み、ねたみ、うぬぼれなど)は、個人的な感情であり、美的で洗練された8つ(あるいは9つの)のラサとは別のものとされている。(・・・)究極の美的体験は、宗教の信者が祈りの果てにたどりつく至福に似ている。

 これを現実にするためには、役者も観客もともに努力しなくてはならない。(・・・) 役者と観客という立場の違いはあるが、両者は助け合い、ともにラサを体験するのが目的である。58頁

58~59頁のデーヴァダーシーについての記述は重要。

デーヴァダーシーはdeva(神)+ dasi(奴隷の女の子、娘を寺院の踊り子として捧げたカースト)で神と結婚した女、聖女。

寺院の踊りは貴族や金持ちなどのパトロンに支えられてゐた。彼女たちが踊る聖なる場所には最も上のカーストしか入ることができなかった。ただ一年に一度の祭りの際に、神に捧げる踊りを民衆に見せた。

 後世になると、彼女らは王に捧げる宮廷舞踊も演じるようになった。サンスクリット語のテキストの翻訳者でもあったデーヴァダーシは、しばしばダンスだけでなく、音楽や文学についても高い教育を受けていたので、王子、延臣、学者らの交際相手として引っ張りだこだった。地中海東部にいた「聖なる娼婦」が、広くインドにもいたのかどうか歴史家は議論している。いずれにせよ、寺院の踊り手と明確に区別するのは難しい。デーヴァダーシたちの身持ちについての評判も、時代や地域によってずいぶん違う。

 19世紀末期、イギリス人が一方的にインド社会に偏見を持ち、非道徳的慣習を改めさせようとしたこともあって、寺院に常駐するダンサーたちの地位も地に落ちた。1927年にガンジーは、「残念ながら、わが国の寺院の多くは売春宿も同然である」と書いている。「デーヴァダーシたちは食いものにされているのだ」とキャンペーンを起こして寺院のダンスは禁止された。

 しかし、そこで踊られていたダンスは今も残っている。踊りを踊ったり、教えたりするのを家業とする人びとが、何世代にもわたって芸を育み、わずかな弟子に伝えつづけた。インド独立運動が芽生えると、詩人や作家はインド固有の文学を擁護し、またインドの伝統的なダンスを守る運動にも乗り出した。上層カーストの女性指導者たちは、仲間からの非難をものともせず、残っていたデーヴァダーシたちと踊りを学んだ(その当時、バラモンの女が人前で踊るということはありえなかった)。 58~59頁