「いのちの輝き フルフォード博士が語る自然治癒力」ロバート・C. フルフォード
翔泳社 1997(原書は1996年出版) 翻訳:上野圭一
オステオパシー治療家であるフルフォード博士が自身の治療方法と、その基盤となる人間観、生命観、宇宙観を語ったもの。
ぼくは20代の頃、5年ばかりタイ古式マッサージのセラピストとして働いてゐたので、手技療法にはなじみがある。
オステオパシーとかカイロプラクティックとかいろいろあってややこしいですね。
日本には「整体」という概念があり、それを看板に掲げてゐる治療家がたくさんゐて、また接骨・整骨院(柔道整復師)というのがあり、鍼灸師、指圧師、マッサージ師という国家資格も別にある。
さらにぼくがやってゐたようなタイ古式マッサージみたいな「無資格マッサージ」系の形態もいっぱいあって乱立気味だ。
ふつうの人からすれば何が何やらという感じではないだろうか。
これら手技療法の交通整理を行って大まかな図式を把握することは、超高齢化社会にあって健康寿命を延ばすという点で、また社会保障費を可能な限り抑制するためにも、けっこう重要なことではないかと思う。
しかし、上記のとおり現状はこんがらがってをり、検索して出て来る記事は玉石混淆だ。
結局のところ、自分に合った治療法を見つけるためには、いろいろ行ってみて自分で体験してみるほかないということになりそうだ。
なげやりですみません。
だってそうなのだもの。
ぼくは一回しか行ったことがないけれど、鍼とか好きだな。
鍼を打たれて寝転がってるの、気持ちがよかった。
もちろんタイ古式マッサージも大好き。
上手な人にやってもらうと本当に気持ちがいい。
膝下のオイルマッサージ、足裏マッサージなんか最高ですよね。
そうだ。うん。ぼくは足裏マッサージが一番好き。あれはたまらない。
足裏、手、耳に全身の反射区があるという話、あれは本当だ。
もちろん信じない人は多いと思うけれど、ぼくは実感としてそのように思う。
ぼくは側弯症といって(軽度だけれど)背骨が歪んでゐて、肝臓の裏(背中ね)がいつも痛いのだけれど、それが足裏の反射区にもはっきりと出てゐる。
で、そこを押圧用の棒でぐりぐりやると背中の痛みがやわらぐ。
面白いなあ。
さて、「いのちの輝き」のフルフォード博士はオステオパシーの治療家。
プロローグから引用。
科学のおかげで得た知識を捨てることなく、もういちど人間を霊性・精神性・身体性からなる、ひとつの全体としてとらえること、 それはわれわれの時代の責務である。霊性・精神性・身体性という三つの要素のつながり具合を詳細に研究していけば、われわれひとりひとりのほんとうの姿が、じつは心霊的もしくは霊的な実質を担う「肉の肉体」、つまり肉でできた活動の舞台だということに気づくことができるようになるだろう。
それに気づいたとき、患者はもう解決すべき問題をかかえる人、おさえつけるべき病気をもつ人としてではなく、身体的・精神的・霊的な次元でのバランスを回復するために助けを必要としている人としてみなされるようになる。断言するが、そこにこそ現代医学がすすむべき方向がある。その用意はとっくの昔にととのっている。 17頁
このような人間観のもとに手技を行う。
その指の感覚はものすごい。
大学ではこんな訓練もした。紙のうえに人間の髪の毛を一本置き、そこに別の髪を重ねる。紙に目印をつけることは許されない。そして、うえの紙にそっと指一本でふれ、髪の毛がどこにあるかを感じとる。正しいいいあてられれば、つびの指でふれる。両手の指すべてで正解をだすと、教授はもう一枚の紙を重ねる。それでも正解がでると、また一枚と、それ以上だれもいいあてられなくなるまで何枚も紙を重ねていくのである。
(・・・)
わたしは手指の感覚を磨く訓練を怠ったことは一度もない。おかげで、九〇歳をこえた現在でも、患者の何十年か昔の骨折をいいあてるだけの感覚はおとろえていない。四肢に手をあてながら移動させていると、ほんのわずかなざらつき、筋肉のひきつり、骨折が治癒したあとのカルシウムの沈着などが手に感じられてくるのだ。 26~27頁
博士によれば、人体は「生命場」に包まれて存在してゐる。この概念が面白い。
「からだの半分は、われわれがふだん人間として認識している肉体であり、あとの半分は目に見えない「場」なのだ。」
「この生命場は肉体に生命力をみちびきいれ、その人にスピリット(霊魂、気力)を供給している。けがをしたりこころを痛めたりすると、生命場はそのショックを、エネルギーの消耗というかたちで肉体にあらわす。」
(・・・)じつのところ、そのその場は物質的なからだがこの世に出現する前に姿をあらわし、成長する生物の原子や分子をみちびいて、正しいかたちに組織化していく役割をはたしている。
いってみれば、その電磁場のパターンが鋳型をつくり、その鋳型にしたがって物質がかたちづくられ、目で見え、手でふれられる肉体が生じてくるということである、物質的なからだも「場のからだ」も、ともに「脳」をもっているが、生命場の「脳」は肉体の脳とは似て非なるものである。それは生物の肉体的構造を支え、肉体のあたらしい細胞ーーたえず死んでいく古い細胞といれかわっている細胞ーーに行き場所を指示する組織化のパターンのようなものだ。その指示がなければ、あたらしくできた細胞が肝臓に、筋肉に、肺に行くことが、どうやってわかるというのだろうか? 35-36ページ
たしかにそうだ。物質がある場所を占め、かたちをつくる、そのデザインがあるはずであり、その指示を出すものがあるはずだ。
それを博士は「生命場」と呼び、「宇宙の創造的な力」であるという。
「生命場」を満たすエネルギーが「生命力」であり、「生命力」の流れの多くはこころによって調整されてゐる。
たとえば、感情的なまでにある想念パターンに固着していると、生命場のなかでその想念パターンが固着しはじめ、肩がさがる、片脚が短くなる、まぶたがピクピクするなど、からだの反応の原因になる。それが一定期間つづくと、それらのパターンが慢性的になり、からだのかたちが永久的にそこで固定してしまう。(・・・)
いってみれば、思考や想念はそのまま物理的な結果につながるものである。だから、自分がなにを考えているか、その考えにもとづいてどう行動するかに、いつも注意している必要があるのだ。 55-56頁
博士は、脳の奥の方に住みつき、からだの代謝の邪魔をしてゐる古い想念のパターンを除去するための簡単な方法を紹介してゐる。これが面白い。具体的で、やり易そう。
(・・・)わたしがよくすすめる方法がある。それは、夜、寝る前に、根やを暗くして机に向かい、自分の個人史をさかのぼって書きつづるというものである。ほとんどの人にとっては、個人史を生まれたときから書き起こすのは無理な話だが、現在から書きはじめて、記憶の薄い層をじょじょにはがしていくことならできる。だから、わたしは記憶をさかのぼる方法をすすめている。
一ページ書きおわったら、それを読みなおさずに破いて床に捨て、つづきをまたつぎのページに書きはじめる。夜もふけて、疲れてきたら、破り捨てたページを残らず集めて、安全なところで火をつけ、それが燃えつきていくのを見つめる。それをしばらくの期間、必要と思うだけくり返すのである。 89頁
「古い想念のパターン」が自分を傷つけてる。それが健康や成功や、何かよいものの実現をさまたげる。これは誰でも経験的に知ってゐることだ。
「わたしなんかが、できるはずない」
というあれ。
博士は繰り替えし「古い想念のパターン」に依存することからの離脱を促す。
(・・・)ところが半年もたたないうちに電話があり、同じ症状を訴える。ようするに、古い想念パターンを手放したくないのだ。というのも、健康でいようという意思よりも不満を訴えたいという欲望、自分を弱いものだと考えたいという欲望のほうが大きいからなのだ。
(・・・)
自分を哀れな弱者だと考えるのをやめ、着実に健康への道を歩んでいるのだと自分にいい聞かせればいいのだ。欲望をコントロールしようとする意思によって傷つくことはありえない。わたしの経験では、その意思こそが、こころ強い見方になってくれるものだ。 111-112頁
どんなときでも、自分の内なる力を信じ、自分にたいして肯定的になることは、まことに重要である。医師が頼りにならないと感じると、治癒は困難になる。同じことが自分の想念についてもいえるのだ。たとえ自分に自身がなく、自分を信じたことなどないという人でも、内なる治癒力にたいする信仰心を育むことからはじめてほしい。 118頁
第七章「霊性を高める」が、博士の宇宙観・生命観を知る上で最も重要と思う。
霊性とは何か。
霊性とは不完全な世界にあって平和と幸福を見いだす能力のことだといっていい。
それはまた、自己のパーソナリティの不完全さを理解し、それをそのまま受容することでもある。理解し、受容したときのこころのやすらぎから、創造性と利他的に生きる能力が生まれてくる。 185頁
霊性とは本来われわれを、創造の背後にあるさまざまな力、すなわち愛のエネルギーや叡智のエネルギーとの統合へとみちびいてくれるものなのだ。 187頁
年齢・人種・国籍を問わず、地上にいるすべての人は完全に純粋な存在である。だれしもが同じひとつの本源からやってくるエネルギーを受けているからだ。
その純粋で霊的な本来の姿のそばにいつづける能力を「善」といい、善はいつも目の前にあり、だれもがつねにアクセスすることができる。
その一方、「悪」というものはもともと存在するものではない。にもかかわらず、悪は起こりうる。純粋で、いのちをあたえる宇宙エネルギーの流れをブロックし、自己の存在から遠ざかるとき、人は悪になる。つまり、悪とは霊的な力の欠如のことなのだ。 190-191頁
霊性を高めるために何をすべきか。
人生の目的を見つけること、あたえること、こころを鎮め、いのちについて考えること。
では、人生の目的とはなにか?
わたしには答えられない。それを見つけることが、その人の一生をかけた課題なのだ。だから、わたしも自分の目的なら答えられる。それは若いころから、ヒーラーとして、またオステオパシー医としての技量を磨くということだった。おそらくわたしにとって、医学校に行けなかったという経験は、それを見つけるために必要だったのだろう。その経験がわたしを正しい道にみちびいてくれたのだ。
自分の目的を見つけることがそんなに重要なのか?わたしにいわせれば、それ以上に重要なことはほかにないほどだ。目的を見つけるためには、なにかを捨てなくてはならないかもしれない。捨てるのは、それまで人類の福祉に貢献してきた大切なものかもしれない。しかし、それでいいのだ。こころから満たされた思いで人生を終えるには、目的を見つけ、その目的を果たすしかない。人が目的を果たすとき、目的がその人を完成にみちびいてくれる。 193-194頁
目的を見つけること以外に、霊性に近づく方法はなにか?
横断歩道をわたる弱者に手を貸し、必要としている人にバスの座席をゆずることだ。無条件で、すすんで人にあたえるたびに、いのちが少しずつ輝きだす。あたえられた人があたえ返すことを考えはじめ、礼と返礼の法則がきざしてくる。 195頁
時間をつくって静かに座り、自分のいのちについて考えてほしい。霊的な側面に近づくために自分が何をしてきたのかを、よく考えるのだ。いのちの霊的な部分にたいしてどれほど配慮してきたかをたしかめるために、ノートに行動リストをつけるのもいい。また、自分がどこでエネルギーを賢く使い、どこで使いかたをまちがったのかについても考えてほしい。 197頁
「捨てるのは、それまで人類の福祉に貢献してきた大切なものかもしれない。しかし、それでいいのだ。 」
これはすごい言葉だと思う。
「人類の福祉に貢献してきた大切なもの」を捨ててもいいのは、「目的がその人を完成にみちびいてくれる」からだ。
ひとりの人間が完成に近づくとは、それほど重要なことだというのだ。
それはきっと、完成に近づいた人間は、誰よりも多くのものを他者にあたえる人になるからだろう。
また、ひとりの人間は全宇宙である、そういう人間観をもってゐるからだろう。