手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「じゃじゃ馬ならし」シェイクスピア

じゃじゃ馬ならし」1592~4 翻訳:福田恒存

 

福田恒存翻訳全集・第四巻「シェイクスピア篇Ⅰ」所収。

福田の解題によれば、これは共作であるらしい。

間違ひなくシェイクスピアの筆と見なされるのは、最初の序劇とペトルーキオー=カタリーナの場面とを含む五分の三程度で、あとは共作者のものと考へられてゐる。

カタリーナとビアンカという姉妹がゐて、この二人は性格、資質がまったくの正反対。

カタリーナは「じゃじゃ馬」でどうにも手がつけられなくて、貰い手がゐない。

その模写がなかなかひどくって、意地悪でねじけもので、腐ったリンゴだとか言われる。家庭教師をいきなりぶんなぐってしまうとんでもないアバズレ。

他方のビアンカは淑やかで美しくモテまくり、求婚者がわんさか訪れる。

そこで、二人の親父はビアンカの求婚者に対して「姉がかたづかないと、妹は結婚させないよ」ってなことを言って、ビアンカを家にとぢこめてしまう。

さて、カタリーナは結婚できるか、ビアンカをものにするのは誰か・・・

というお話。

最終的に、どうなるか。

ホーテンショー よう、大いにやつてくれ、とにかく、ひねくれのじやじや馬を、馴らした君の手際は見事だ。

ルーセンショー 不思議だよ、失礼な言ひ方だが、あの人を、ああもおとなしくしてしまふなんて。

てな具合になる。

ペルトーキオーという男がビアンカの夫になるのだが、こいつがどうやってじゃじゃ馬・カタリーナを馴らすのか。

これがとにかく、はちゃめちゃで、大暴れで楽しい、というのがこの芝居の魅力。

ペルトーキオーの独白を引用しよう。

かうして巧みに支配権を確立してしまへば、もう大丈夫、 いづれは成功に終るだらう。俺の鷹は、今のところ腹ぺこぺこ、いよいよたまらなくなつて餌に飛びつくまでは、たらふく食はせてはならないぞ、腹がふくれれば、餌箱なんか見向きもしなくなるからな・・・・・もうひとつ、どんなに言ふことをきかない鷹であらうと、飼主の意のまま、命のまま、手もとに呼びもどす手があるのだ。ほかでもない、断じて眠らせないことだ、野生の鳶で、羽をばたばたさせて、どうしようとかうしようと言ふことをきかない奴には、その手を用ゐるさうではないか・・・・・けふ、あれはまだ飲まず食はずだ、もちろん、あとでだつて、何もやらない。ゆうべは一睡もしなかつた、今夜だつて寝かすものか。さつきの肉のときと同じ筆法、ベッドの支度に、何か難癖つけて、あつちの枕、こつちに掛布団、向うにシ-ツといふ具合に、ぽいぽい投げとばしてくれる。さうだ、さうした乱暴沙汰も、つまりは、あれのためを思ふからこそ、といふやうにやつてのけるのだ。要するに、一番中、一睡もさせないこと、こつくりひとつしようものなら、大声で喚きちらし、うるさくて眠れないやうにしてやろう・・・・・これ、深き情けもて妻を殺すの法なりだ。さうでもしなければ、あの気違ひじみた強情はなほせるものではない・・・・・ほかのじやじや馬ならしの名案を御存じの方がおいででしたら、どうぞ名のりをあげて頂きたいーーーお教へあるは、何よりの御慈悲と申すもの。

いやひどい。

たいへんなモラハラ

と、いうこともできるだけれど、このペルトーキオーのぶっとびぶりが、カタリーナの壊れぶりに、実によく合うのである。

カタリーナは誰も手をつけられないアバズレ、ペルトーキオーはそれを上回る狂人、ということで、これはこれで、狂ったもの同士、読んでゐると、二人とも不思議とかわいらしく思えてくるのである。

ここが面白いところで、ぼくはやっぱり相性だよな、などと思った。

円満な人格というのはなかなかまれなもので、ふつうは、どんな人でもデコボコしてゐるものである。

問題は、こちらのデコボコとあちらのデコボコの噛み合いがうまくいくかということだろうと思う。

一般的に、いい女とかいい男とか言ってもしかたないので、要はなにもかも、相性というふうに思う。

カタリーナのじゃじゃ馬ぶりには、ペルトーキオーの狂気がぴったりということなんだ。

福田は言う。

  この戯曲は怒号を喚び、事実、それを要求する箇所も多いので、ペルトーキオー役者は訳の解らぬ叫声や饒舌に誘はれがちである。だが、この男には一種の思ひやりとも言ふべきものがあつて、それが一貫して彼の狂騒の底を流れてゐる。舞台ではそれが現れなければならぬし、それを現してやりさへすれば、見物は必ず喜ぶ。なるほど彼は悍馬を馴らさねばならない。事実、甚だ過酷にそれをやつてのける。だが、召使や仕立屋の前で荒れ狂つてゐる間にも、彼は結構、女のためを思つてをり、その言葉にもどこか控へめな優しさが残つてゐるーーー確かに抑制が働いてをり、皮肉な言葉つかひのうちに、かへつて情のこまかい優しさを感じさせる。すぐ解ることだが、彼は相手にありとあらゆる試練を課するにもかかはらず、気位の高い女にとつてはどんな暴行よりも心を傷つける蔑みの言葉だけは一度も使つてゐないのである。ペルトーキオー役者がこの底を流れる思ひやりにさへ留意するならば、まづ失敗はなく、必ず「好演」できる。