手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り🌴

嗚呼、養老先生!

昨日、ダンスの練習をしてゐて、どうもうまくいかなかった。

進歩はあったのだけれど、もっとできると思ってゐたのに、その期待を下回ってしまった。

なんとなく気分が、調子がでなかったのである。

これはなぜと言うに、自分の感覚よりも、決め事を重視してしまったからだ。

早い段階でそれに気がついたのにかかわらず、そこから方針転換することができなかった。

慙愧に耐えない。

基礎練習としてこれをしようというメニューを決めてゐて、それをこなしてから新しいことに進む。

そういうふうに時間配分をする。

これがまあ普通である。

だいたいはこれでいいし、そういう手順は必要である。

しかし、どうも違うなあという感じが、昨日あった。

要するに、さっさと新しいことをしたかったのであるが、その感覚を無視して、メニューをいちいちこなそうとしたのである。

これがよくなかった。

ここで、決め事からすっと離れて自分の感覚にしたがうべきだったのだ。

感覚にしたがうべきか否か、この見極めは、なかなか微妙で繊細なものである。

ぼくは帰りの電車でおおいに反省した。

むづかしいなあと思った。

そうして養老孟司先生の言葉を反芻した。

「感覚を使って生きる」ことと、「それを抽象化して文章にする」ことがつながってくれば人は賢くなります。でも、これは非常に大変なことです。 (こちら

これはほんとうに至言だ。 

なんか違うな、ほんとうは、これがしたいんだよな、というのは分かってゐるのに、できない。

これはやはり脳で考えすぎてゐる、言葉で考えすぎてゐるからなんだ。

いや、考える、そのための言葉を、脳からではなく、身体から、くみ上げていかなくてはならないんだ。

そうすれば、言葉で考えることと、身体で考えることとの乖離は小さくなってくるはずだろう。

そのとき、見極めは見極めではなくなり、感覚と思考が一致し、自然な思いと自然な判断がでてくるはずなのだ。

學而時習之、不亦説乎。