昨日、ダンスの練習をしてゐて、どうもうまくいかなかった。
進歩はあったのだけれど、もっとできると思ってゐたのに、その期待を下回ってしまった。
なんとなく気分が、調子がでなかったのである。
これはなぜと言うに、自分の感覚よりも、決め事を重視してしまったからだ。
早い段階でそれに気がついたのにかかわらず、そこから方針転換することができなかった。
慙愧に耐えない。
基礎練習としてこれをしようというメニューを決めてゐて、それをこなしてから新しいことに進む。
そういうふうに時間配分をする。
これがまあ普通である。
だいたいはこれでいいし、そういう手順は必要である。
しかし、どうも違うなあという感じが、昨日あった。
要するに、さっさと新しいことをしたかったのであるが、その感覚を無視して、メニューをいちいちこなそうとしたのである。
これがよくなかった。
ここで、決め事からすっと離れて自分の感覚にしたがうべきだったのだ。
感覚にしたがうべきか否か、この見極めは、なかなか微妙で繊細なものである。
ぼくは帰りの電車でおおいに反省した。
むづかしいなあと思った。
そうして養老孟司先生の言葉を反芻した。
「感覚を使って生きる」ことと、「それを抽象化して文章にする」ことがつながってくれば人は賢くなります。でも、これは非常に大変なことです。 (こちら)
これはほんとうに至言だ。
なんか違うな、ほんとうは、これがしたいんだよな、というのは分かってゐるのに、できない。
これはやはり脳で考えすぎてゐる、言葉で考えすぎてゐるからなんだ。
いや、考える、そのための言葉を、脳からではなく、身体から、くみ上げていかなくてはならないんだ。
そうすれば、言葉で考えることと、身体で考えることとの乖離は小さくなってくるはずだろう。
そのとき、見極めは見極めではなくなり、感覚と思考が一致し、自然な思いと自然な判断がでてくるはずなのだ。
學而時習之、不亦説乎。