手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「騎士団長殺し」村上春樹

騎士団長殺し」2017 新潮社

 

2年前、発売直後に読んで、今回、再読。

最近、村上春樹がどうも変わってきたのかな?と思ったから。

ラジオに出た。

こないだ公開収録で「90歳までがんばります」みたいなことを言ったというのがニュースになってゐた。

番組は夏の終わりに放送らしい。

村上春樹が「90歳までがんばります」なんて言うとは・・・と驚いたのだ。

ぼくの印象のなかの村上春樹はそういう感じではないから。

それから、こないだ文藝春秋に「猫を棄てる 父親について語るときに僕の語ること」というエッセイを寄稿してゐた。

これがよかった。

 いずれにせよその父の回想は、軍刀で人がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものをー現代の用語を借りればトラウマをー息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういういうものなのだ。その本質は<引き継ぎ>という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?

とか。

70歳になった村上春樹は、東京でラジオに出て、父について語った。

90歳までがんばると言う。

ほんとうに90歳まで彼ががんばれば、われわれは、例えばあと5冊くらい長編を読めることになる。

これはうれしいことだ。

ぼくはハルキストを自称もしないし他称もされないが、村上春樹のファンだ。

長編は全部読んでゐる。短編はすべてではない。

村上春樹が気になって、直近の長編である「騎士団長殺し」を読み返した。

<引き継ぎ>という行為が重要なテーマになってゐた。

一度目読んだときは、「これは久しぶりに駄作なのでは・・・?」と思ったのだが、間違ってゐた。

今回の印象は「おおお…!円熟だ~!!」というものだ。

たしかに、「いつもの話」ではある。

ぼくが一度目に読んだときに、つまらないと感じたのは、たぶん、この作品があまりにもムラカミムラカミしすぎてゐるからだ。

ぼくは2年前この小説を読む前に、他に彼の長編を3作ばかり続けて読んでゐたのだった。

それで、「騎士団長殺し」があんまりムラカミムラカミしてゐたもので、おなか一杯になってしまったのだと思う。

向き合うべきものから逃げてきた男が主人公。

それが故に妻から去られる。

主人公は異界との狭間で自身の魂と出会う。

勇気をふりしぼる。

現世に帰ってくる。 

今回はハッピーエンドだった。ユズ(妻)との生活をもう一度はじめることとなった。

よかったね!!

この結末は冒頭に提示されてゐた。

 その当時、私と妻とは結婚生活をいったん解消しており、正式な離婚届に署名捺印したのだが、そのあといろいろあって、結局もう一度結婚生活をやり直すことになった。

これ、14頁の記述である。まったく冒頭。

で、「自分には信じる力がある」から大丈夫だ、と確信して終わる。

きれいだ。

きれいに環が閉じて終わる。

いや、これはすごい傑作なのでは?

昨夜読み終わって、まだ感動がおさまらない。

村上春樹のインタビューがある。2019年6月の記事だ。

ずいぶん親切に語ってくれてゐる。

こんなふうに自著の解説じみたことをする人だったっけ?

免色さんの気持ち悪さは村上作品のなかでも抜きん出てるように思う。

ほんとに気持ち悪いです。

この人の印象が強烈で、彼の登場シーンはすごい緊張感がある。変なたとえだけれど、タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」でクリトフ・ヴァルツが演じるランダ大佐(大好き)みたいな感じ。

ランダ大尉くらい強烈で、ある意味、主人公を食ってゐる。

どうしてあんな人物を造形できるんだろう。

すごいなあ。

あと、騎士団長に出刃包丁を突き刺すシーン、それからメタファーの世界を彷徨うシーンの模写はものすごい密度だった。

まさに、「体験」する読書。

次の模写など、好き。

 私はまず、出産を控えている(という)妻のことを考えた。それから彼女はもう私の妻ではないのだということにふと気づいた。彼女と私とのあいだには、もはや何の繋がりもない。社会契約上も、また人と人との関係においても。私はもうおそらく彼女にとっては何の意味も持たないよその人間になってしまっているのだ。そう考えるとなんだか不思議な気がした。何ヶ月か前までは毎朝一緒に食事をし、同じタオルと石鹸を使い、裸の身体を見せ合い、ベッドを共にしていたというのに、今ではもう関係のない他人になっている。

 そのことについて考えているうちに次第に、私自身にとってすら私という人間が意味を持たない存在であるように思えてきた。私は両手をテーブルの上に置き、それをしばらく眺めてみた。それは疑いの余地なく私の両手だった。右手と左手が左右対称にほぼ同じ格好をしている。私はその両手を使って絵を描き、料理をつくってそれを食べ、ときには女を愛撫する。しかしその朝は、それらはなぜか私の手には見えなかった。手の甲も、手のひらも、爪も、掌紋も、どれもこれも見覚えのないよその人間のもののように見えた。

ぼくにとって、こういう感覚は珍しいことではない。かなり頻繁に、自分が「よその人間」であるように感じる。

鏡を見て「お前だれだよ」という気持ちになる。

世界が存在し、自分が生きてゐるということが、うまく把握できなくなる。

世界をかたちづくり、世界と自分をつなぎとめてゐる「意味」みたいなものが、ほどけて、くずれてしまう感じだ。

文学が好きな人は、きっとこういう実存的不安みたいなものを感じてゐる人なんだろうと思う。

村上作品を読むと、喪失を経て、性を営み、冥界をさまよい、再生する、という神話を「体験」することができる。

そうして、「生きていこう」という気持ちになる。

村上さん、偉大。

感謝あるのみ。

長生きしてよ!

第3部あるのかなあ。