手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」

監督:アン・リー 主演:スラージ・シャルマ
 
 
ネタバレ有です。
この映画は主人公がラストに行う告白により、そこまで見てきた印象がガラっと変わってしまうように出来てゐるので、未見のかたはこの先を読まないようにお願いします。
絶対に読んではいけません。
 
はい。
では、感想を。
思いつくまま書くのであっちゃこっちゃ行きます。ご容赦ください。
この映画はトラとパイとの漂流生活を描いてゐる。
映像が凄いというのが一番の魅力だ。
トラがCGとは思えないほどリアルで、意識が混濁してきた主人公が見る、幻想的な世界がとにかく美しい。
その映像体験を楽しむ。
そういう映画だな~と思って見てゐたら、ラスト15分くらいかしら。
その映像体験がぶっとぶような告白を主人公がする。
なんと、乗ってゐた貨物船が難破して、トラとハイエナとシマウマとオランウータンと自分が救援艇に乗り込んて、トラがまづシマウマを殺し・・・というこれまで映画が語ってきた内容はすべて作り話であるというのだ。
いや、作り話とは言ってゐない。
小説家が「信じられない」と言うと、主人公が「そうだろう、信じられないだろう。保険会社の人間もそう言った。では次のような話はどうだろう?」
と言って、もう一つの物語を語る。
難破した際に救援艇に載ったのは、自分と母とコックと仏教徒である。コックが仏教徒を食いその肉で魚を釣り、また母を殺した。怒った自分がコックを殺し「コックがしたことと同じことをした」と。
つまり、
トラ ーーーパイ
母  ーーーオランウータン
コックーーーハイエナ
仏教徒ーーーシマウマ
という対照が成り立つことになる。
つまり、このトラと漂流して生還したという話は、どうやらパイが「理解することも受容することも困難な、過酷すぎる現実を把握するために創造した物語」なのではないかという仮説がなりたつ。
しかしパイは、どちらが真実だとは言わない。
「海で起った二つの物語を話した。船の沈没の原因は不明。どっちの話が真実か証明できない、いづれの話でも船は沈み、家族を亡くして悲しんだ。」
そうしてパイが小説家に問う、その言葉がこの映画の本質だ。
「Which one dou you prefer?」
字幕では「君はどちらの話がいいと思う?」と訳されてゐたが、ぼくは、まったく勝手に「君はどちらの話を選ぶ?」と訳したい。
どちらをチョイスすることが、君にとって好ましいのか。
どちらを選ぶのか。それはあなたが決めてくれと。
問いに対して小説家は「トラの出てくるほう」と答える。
パイは「神の話だね」と言う。
これは「信仰」についての映画だったわけだ。
びっくりだね。
映像すごいな~と思ってみてたら、「人はなぜ神・宗教・物語を求めるのか」という話に一気に転換してしまう。
びっくりした。
どちらの話も、生存者は一人で証人がゐない以上、その真実性を「証明」することはできない。
だから、人は「信じる」しかない。
では、どちらを「信じる」か。
二度目に見ると、いろんなことが分かってくる。
映画は次のような独白からはじまる。
「わたしは早産で、トカゲを観察中の学者が私を取上げた。母子は無事だったが、トカゲはヒクイドリに踏み潰された。カルマだよ、神の意志さ。」
神のはなしだ。
難破した後の映像体験が圧倒的なので、ここらへんがふっとんでしまうのだけれど、たしかに、難破するまでずっと、少年パイが神について考える、知りたいとい思う、そういう姿が描かれてゐる。
独白の次のシーンは、小説家がパイから名前の由来を聞くシーンだ。
パイが「これはおじ(ママジ)のフランシスがね・・・」と言うと、小説家が「あれ?フランシスはおじではなく、お父さんの親友では?」「いや、おじさんみたいなものでね」という会話。
あやしい。
思えば、最初からあやしかったのだ。
パイはどうやらカナダの大学で宗教学か何かを教えてゐるようだ。そして彼はヒンドゥー教徒であり、キリスト教徒であり、イスラム教徒であると自称してゐる。つまり、〇〇教とは言えないような、彼だけの「信仰」を持ってゐるということだ。
それははっきりしてゐる。
しかし、上記やりとりに暗示されてゐるように、パイの語りは初めから信頼性に欠けてゐる。信頼できないかもよ~とこの映画は冒頭で宣言してゐる。
だから、トラの話も神の話も、どちらもが作り話であるという可能性もある。
パイが信仰を獲得するまでの、「内的な冒険」を、あのような話に昇華させたものかもしれない。
そういう解釈の余地はあるし、そのように、この映画は開かれてゐる。
映画のラスト、パイの妻子が帰ってくると、小説家が「この物語はハッピーエンドなのですね」と言う。
それに対しパイは「そちら次第だ、君の物語だからね」と答える。
この映画は「君はどのような物語を選ぶのか、君は何を信じるのか」そう問うてゐる。
パイには信仰がある。パイの信仰はパイだけのものだ。パイだけのものであるパイの信仰を語るとき、トラの物語と神の物語が必要なのだ。信仰は物語の水準でしか語ることができない。
では、そのパイの信仰を語る物語を、あなたがどう理解するのか、それはあなたの物語だと言うのだ。
トラについて。
二度目に見ると、はっきりと、びっくりするくらい明確に描かれてゐるのが分かるのだが、トラが救援艇の底から登場するシーン、トラがまさにパイと重なるようにして、パイから飛び出してきたように見える。そのように描かれてゐる。
パイは「コックは自分の内なる悪をひきだした」と言った。この言葉から考えると、トラは「悪」を象徴してゐると言えそうだ。
しかし、この物語をつぶさに見ると、トラが体現してゐるものは単なる「悪」ではない。もっと大きい。
「破壊神」のような言葉がふさわしいかも知れない。
漂流生活の終盤、トラもパイも疲れ果て、一つ船に同乗してゐるという場面がある。よく考えたら、トラと一緒に乗ってしまってるというのが、変なのだが、つまり、このあたり、もうトラとパイとの境が切れ始めてゐるということなんだろう。
トラが海面をのぞきこむ。
それを見たパイが、同じように海面をのぞきこむ。
すると見えてきたのは、宇宙だった。
これは、幼児期に語られるクリシュナの物語。クリシュナの口のなかに全宇宙が見えたという挿話と重なりあうものだ。
人間の生と死、太陽系、全宇宙で起ってゐることすべて、ひょっとしたらクリシュナの口の中で生起する現象にすぎないのかも知れない。
トラとパイの顔が重なりあって幻視が終わる。
次の場面にパイが言う。
「言葉にしがみつかないと、思考が混乱してしまう。夢なのか現実なのか区別がつかない」
そこまで書いてエンピツはなくなり、嵐が消えて、ノートもなくしてしまう。
小さな船は海に飲まれ、気がついたらミーアキャットの島に漂着してゐた。
この島は、昼間は天国、夜は地獄、離れる際の映し出される遠景では人形をしてゐて、どうもヴィシュヌ神の形のようだ。
この島はある種の彼岸、死後の世界を表してゐるのだろう。
嵐の中で、パイは「神さま、命を与えてくださって、ありがとう、あなたの元にいきます」と言う。
パイは自力を完全に放棄した。そして神の島にたどりついた。
なぜパイは生きて帰ってこられたのか。まったく分からない。
神の意志、恩寵というほかない。
ここに、信仰というものの、のっぴきならない要請がでてくる。
そういえば、恋人にもらったミサンガを島の木の根に結んだのはなぜだろう・・・
この行為の意味だけがよくわからなかった。
 
アン・リー監督の新作が秋に公開される。
楽しみだなあ。