手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

ありえない

「ありえない」という言葉を「認めない」とか「許さない」という意味で使う用法がこの5年ほどで急速に一般化したような気がする。完全にぼくの印象であり、てんで的外れなことを言ってゐるかもしれないけれど、少なくともぼくはそう感じる。代表的な例を二つ示す。

立民と共産党の共闘はありえない。 芳野友子連合会長

東京五輪)中止はありえない、無観客もありえない。 小池百合子東京都知事

この用法は新しいのではないか。手元の国語辞典の「ありえない」の項には、あるはずがない、「ありうる」の反対、と書いてある。「ありうる」の項を見ると、存在する可能性が十分ある、当然考えられる、と書いてある。上の例はこの用法とは異なる。用例.jpで「ありえない」を検索すると次のような例が出てくる。

鏡の中に死んだ人の影が現れるなんて、だれが考えてもありえないことだ。  阿刀田高『猫の事件』

あまり重要じゃないことをわざわざ羊皮紙に書くことはまずありえない。   ポー『黒猫・黄金虫』

ぼくが慣れ親しんできた「ありえない」はこちらだ。客観的・科学的に見て存在するはずがない、論理的に考えて起こりえない。そういう「ありえない」だ。この用法が古いもので正統であると言ってよいと思う。

対照的に、特にいま政治言説で流行してゐる「ありえない」は主観的で没論理だ。「立民と共産党の共闘はありえない」も、「(東京五輪の)中止はありえない、無観客もありえない」も、自分は認めない/許さないという主観的感情を表現してゐるに過ぎない(どちらもふつうに「ありうる」)。認めないのも許さないのもけっこうだが、それならそれを論理の力で説得してもらいたい。それが公共圏における言論というものだ。

客観的観察と論理的推察に基づく正統な「ありえない」も流通してゐて、その語感が日本語話者のうちに生きてゐる。そのため、主観的で感情的な新しい「ありえない」を使っても、言葉のかたちは同じだから、客観性と論理性をもつ主張であるかのような印象を与えることができる。便利な用法だ。

「これってあり?なし?」や「ないわ~」という口語表現が先に普及した。あり/なしという事実に関する語彙を、よい/だめという価値判断に横滑りさせた用法だ。否定的な言葉に対する忌避感から生れたのかもしれない。この用法が公的な領域に取り込まれて、新しい「ありえない」が誕生したと推測する。

21世紀は感情の世紀と呼ばれる。自分の感情に合致した情報を集めることができ、それが真実でなくても、ネット上で一定量の動員が成功すれば既成事実化してしまう。感情と主観が論理と客観を圧倒する時代だ。主観的で没論理な「ありえない」の流行と浸透は、その言語運用面での反映と言えはしないか。

もっとも、冒頭に書いたように、新しい「ありえない」が拡がってゐるというこの記事の前提自体、最近よく聞くなあ、というぼくの感覚に過ぎないのだけれど。