すごいダンサーを見つけてしまって、ひたすら同じビデオを見てゐる。
たまげた。
この動画のサムネイルの左のほうにうつってゐるよく肥えたダンサー。
「肥えた」というのは、
「ああ、この赤ん坊はよう肥えとる」
「天高く馬肥ゆる秋」
の、「肥える」。
このくらいからだが大きいのは素晴らしいことで、「太ってゐる」のとは違う。肥えてゐるのは生命力の証であり、ゆたかで、とてもよいことだと思う。
ま、それはどうでもいいとして、この方は Komal Khushwani さんというらしい。
1996年8月生まれということなので、この動画が撮影されたときは21歳。
上掲の動画では:
0:57~6:27
7:44~8:45
10:19~12:40
13:30~16:09
でその踊りを見ることができる。
すごい衝撃を受けたので、見て、見て、見て、見つづけてゐる。同じものを見続けると、「見る」ということの質が深化して、突然、これまでと違うものが見えてくることがある。
ぼくは Komal Khushwani さんのダンスを見続けて、自分の「眼」がまったく別のものに変わったのを感じた。
カタックの動きは、ああ、こういうものだったのか。と、新鮮な驚きを覚えた。
そういうことがあると本当にうれしい気持ちだ。
見て、見て、見て、見続けてゐたら、あるとき、彼女の腕の中に宇宙のようなものが見えた。無限のひろがりをもった、異次元の空間だ。とてつもない豊穣と、澄明と、猛烈なエネルギーを感じた。
カタックの、胸のまえに両腕をかかげた基本姿勢、そこから上へ下へ動かし、さまざまなバリエーションをつくっていく。その動作の意味、象徴性が、鮮烈に理解された。
驚いた。いままで練習してきて、たくさん動画を見てきたけれど、気づかずにゐた(なんてこった!)。こういうことだったのか。
顔、肩、胸、腕からなる楕円の上に、あるいは中に、その空洞に、宇宙がある。すべての瞬間のキマリ具合、その調和と正確さに目を見張った。「完璧な動き」なるものがこの世にあるとしたら、こういう動きなのではないだろうか。
「正確さ」なんていうと味気ないけれど、ここまで十全な正確さというのは・・・ちょっと、他に見た記憶がない。「かたち」の洗練が極限までいくと、こんなことになるのか。
上の動画において、 Komal Khushwani さんはカタックのラクナウ派(Lucknow Gharana)の紹介として登場してゐる。ラクナウ派の長、Pt. Birju Maharaj(パンディット・ビルジュ・マハラジ)と比べてみる。
ビルジュ・マハラジのダンスを見ると、ぼくはいつも「はじめにリズムありき」という言葉を思い出す。たぶん、昔読んだ中村雄二郎の本に書いてあったのだと思う。
彼の哲学に「汎リズム論」というのがあって、それによれば「はじめに光ありき」でなく、「はじめにことばありき」でもなく、「はじめにリズムありき」なんだと。
リズムからこの世界はできたのだ。
そういう、きわめて抽象度の高い、始原的な、あまりに始原的な「リズム」というものをビルジュ・マハラジのダンスから感じる。
その美は、「かたち」にまで行き着く前の、まだ混沌とした世界の聖なるエネルギーがもつ美という感じがする。
もちろん、「かたち」としても美しい。しかし、その「かたち」以上に、もっと始原的な「リズム」そのもの、世界を世界あらしめた「原リズム」とでもいうようなものが、彼が踊る時空にあらわれてくるように思う。
それと比べると、 Komal Khushwani さんのダンスは時間的にもっとあと、始原からだいぶ時間がたち、宇宙が調和ある秩序をつくった、その「かたち」という感じだ。
惑星の配列、風がつくる砂漠の丘、咲き誇る花々、大地を蹴る獣、そのような、調和と秩序の「美」。
彼女の動きの洗練、かたちの明確さ、流麗さは、そのような「美」を感じさせる。
「かたち」と「リズム」について、さらに、よくよく考えなくてはいけない。
すごいなあ、ほんとに。
視線と腕と胸とによってつくりだされる、空間。