「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」2012
2012年、だから東日本大震災の翌年。そのような空気感が文面にただよってゐる。というのは、これから本当に苦しい時代がくるぞ、けれど悲観しすぎず、自虐的にならずに、わたしたちの国の、わたしたちの文化のなかから、よいものをすくいあげ大事に育てていかねばならない、というような認識だ。
それは、2016年に書かれた「下り坂をそろそろと下る」で、もっと明確に打ち出されてゐる。あわせて読むとよいかもしれない。
平田氏の語り口が好きだ。
ここまで丁寧に、親切に、嫌味なく、誰かを強く批判せずに、まっとうなことを語れるというのはすごいと思う。とてもとても「ふつう」の文章なので、そのすごさはわかりにくいのだけれど、むづかしいことだと思う。
魂を込めたとか、情熱があふれる、とかいう種類の力のある文章ではない、この「ふつう」の文章に、すごい迫力を感じる。
背後に平田氏の明確な主張があり、それが、何の摩擦もおこさずに、すっと胸に入ってくる。そうして、なるほど、ふむふむ、と素直な気持ちで考えるきっかけを与えてくれる。
「素直な気持ちで考えるきっかけを与えてくれる」文章って、じっさい稀有だと思う。
そう書いて、あらためて、これはすごいことだなあと感じいる。
このような文章は、タイトルの示す「わたしたちはわかりあえない。そこから出発しよう」という平田氏の他者に対する根本態度から生まれてくるものと思う。
心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか、「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか。
「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」という言葉は、耳に心地よいけれど、そこには、心からわかりあう可能性のない人びとをあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いてはいないだろうか。 208頁
コミュニケーションとは、「わかりあえないこと」を前提に、わかりあえる部分を探っていく営みである。
これが本書で展開されるコミュニケーション論の核だ。
ぼくは日本生まれ日本育ちであるからシマ国・ムラ社会の論理が染みついてゐる。骨がらみ、なんてことばがあるけれど、ほんとに、そのような論理が抜けないなと感じてゐる。
「わかりあえないこと」を前提に、ということは自戒としていつも心にとめてゐるつもりだ。
しかし、ひょっとすると「心からわかりあえるはずだ」という甘えが顔を出す。そういうときに、コミュニケーション不全が起こる。
イライラしたり/されたり、あれちょっと伝わってないぞ、と思ったり/思われたり、誤解したり/されたり、そのことを相手のせいにしたり・・・
それはシマ国・ムラ社会の論理がこころを領して、「心からわかりあえるはずだ」という前提を無意識的に採用してしまってゐるときなのだ。それが甘えにすぎないことを忘れてゐるのだ。
たぶん、それが完全に抜けきることはないと思う。できることは、自分が徹底的に日本人であるということを強く認識し、その上で、その都度都度のコミュニケーションにのぞむことだ。
「わかりあえないというところから歩き出そう。」
と著者は言う。
それはつらく寂しい、むなしいことかもしれない。しかし、そこから出発する以外に私たちの進む道はない。
と。
わかりあえないこと、バラバラであることの寂しさに耐えられず、シマ国・ムラ社会の論理に逃げ込んで、心からわかりあう可能性のない人びとを排除しようとしてきたのが、3.11以後の日本ではなかったか。
それもそろそろ限界がきたようだ。
「わかりあえないこと」を前提に、わかりあえる部分を探っていく。
著者のコミュニケーション論は、分断が進んだ2020年の今、いっそう重要性を増してゐるように思う。