「キャロル」(2015)という映画が好きだ。
ケイト・ブランシェット演じるキャロルとルーニー・マーラ演じるテレーズの恋を描いた美しい映画だ。あんまり好きなので、ぼくには珍しくパンフレットを購入してしまったくらいだ。
キャロルとテレーズとの関係は女性同士であるから、レズビアンということになる。舞台である1950年代のアメリカでは同性愛は許されてゐない、「病気」なので、二人の関係は公にできない。
物語のはじまりの段階では、同性愛を自覚してゐるのはキャロルのほうだけだ。同性愛は子供の養育に不適という理由で起訴され、裁判の途中である。また同性愛を治すための「治療」中ということになってゐる。
テレーズのほうは同性愛ではない。そのような気持ちをいだいたことはなく、「普通」に異性の恋人(リチャード)がゐる。しかしリチャードとゐてもどうも楽しくない。満たされない。マッチョ系のリチャードは、愛してるとか好きだとか言うけれども、どうもガサツで野蛮な感じがするのである。すぐにチューをせまったりとか、そういうところがつまんない。あきたらない。要するに、イヤなの。
そこでキャロルと出会う。キャロルは知的で洗練された美しい女性。キャロルと話すととても楽しい。ランチをしたり家に遊びに行ったりして、おしゃべりをする。それがこの上なく楽しいので、キャロルともっと一緒にゐたいと思うようになる。そうして、二人は旅行にでかけることになり、あんまり楽しいのでちょっといちゃいちゃしてゐるうちに・・・・という展開となる。まことに美しいラブシーンだ。
ぼくはこの映画は、恋というものの本質を見事に描き出した傑作だと思ってゐる。同性愛とかレズビアンという属性の問題をおおきくとりあげては間違いになると思う。人が人を好きになり、もっと一緒にゐたいと思うというのはいったいどういうことなのか、それを突き詰めて結晶化した物語だ。
テレーゼはなぜキャロルを選んだか。なぜ、これまで同性と肌を重ねたいと思ったことなどなかったのに、キャロルと抱き合うことになったか。それは、話が通じるから好きなのよ、というテレーゼの言葉に尽きると思う。
中盤、こんな会話がある。
テレーゼ:男性と男性が恋に落ちることってあると思う?
リチャード:わからない。けど、そうなるには原因があるはずだよ。
テレーゼ:誰にでもおこることだと思わない?
リチャード:思わないよ。女に恋したのか?
テレーゼ:そうじゃない。
リチャード:ぼくは君と一生をすごしたい。結婚したい。
テレーゼ:心の準備がまだよ、決められないの。
リチャード:何を?話してくれ。
テレーゼ:もう行かないと・・・ごめんなさい。
リチャードに「話してくれ」と言われても、テレーゼは話さない。なぜなら話しても通じないからだ。「誰にでもおこることだと思わない?」と問われて「思わないよ」と答える男に何を言っても通じないぢゃないか。だからテレーゼは行ってしまう。
そしてしばらくして、テレーゼが自分をさしおいてキャロルと旅行に行くと知り、リチャードが詰め寄る場面。
リチャード:知らない女だぞ。信じられない。
テレーゼ:説明できないけど・・・
リチャード:何だ、あの女に夢中なのか?
テレーゼ:ちがうわ、話が通じるから好きなだけよ。
「話が通じるから好きなだけよ。」の元の英語セリフは次のとおり。
I just like is all. I'm fond of anyone I can really talk to.
ただ好きなの。本当に話せる人が好きなの。
いいセリフだなあ。本当に話せる人、話が通じると心の底から思える人には、そうそう出会えるものではない。好き、というのは、結局のところ容姿とか社会的地位とか収入とか性的魅力とかよりも、「話が通じる」と感じられるかどうかではないかしら。 話が通じると、ほんとにうれしいものね。逆に、話の通じない人と一緒にゐるとすごく疲れる。
本当に話せる人に出会えるか出会えないか、出会えるとしてそれはいつなのか。それはわからない。選べるものではない。もし出会えたら、それは素晴らしいことだ。しかし出会えたときに、社会的制約がそれをさまたげるかもしれない。
そうであったとしても、本当に話せる人と出会ってしまった人を止めることはできないと思う。だからこそ多くの人が不倫をするのだろうし、同性愛が許されない状況であっても、同性愛につきすすむに違いない。キャロルとテレーゼがそうしたように。