手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「中動態の世界」國分功一郎

中動態の世界 意志と責任の考古学國分功一郎 2017 医学書

このイベントで、宮台真司さんが國分功一郎さんの「中動態の世界」に言及してゐた。

上掲の動画でも1分23秒あたりからすこし紹介されてゐる。

だいたいこんな感じだったと思う。

國分功一郎さんは「中動態の世界」のなかでいろんな例をあげてゐるけれども、性愛については完全に避けてゐる。

しかし、中動態のはなしというのはナンパを例にするといちばんわかりやすいんだ。

昔の街では、「目が合う」ということがあって、そこから「よく来るの

?」みたいなかっこうで自然に会話がはじまった。

ここで「目が合う」というのは、どちらが主体でどちらが客体とも言えない。

つまり、「する/される」という能動/受動モデルでは説明できない。

そこからコミュニケーションが起動するんだ。

これがあんまり面白いのでぼくは爆笑してしまった。

あまりにも「宮台さんが言いそう」で、これは参った。おもしろすぎる。

宮台さんが「いかにも宮台さんが言いそうなこと」を言い、その横で東さんが「ああ、そうだ、気づくべきだった。たしかに、中動態の世界は、宮台さんならそういうふうに読むに違いない」と、感に堪えないといった表情を浮かべてゐるさまはとてもいい。ほっこりする。

おもしろいうえに、妙にいいはなしでもある。なんか不思議な感覚だ。

それで、以前から気になってゐた「中動態の世界」を読んでみた。

「ナンパの話」だった。

ちがうか。

宮台さんの「ナンパの話」がおもしろすぎて「ナンパの話」が頭から離れない。

われわれは動詞といったら能動態と受動態の二種類の活用があるんだとおもいこんでゐる。そうして世界をそのように理解してゐる。

「行為」は「意志」を持った「主体」によってなされ、それが「客体」に影響をおよぼすのだと。

「する/される」モデルだ。

しかし、よくよく考えてみると、人間の行為というのはそう簡単に能動/受動の二分法にわけられるものではない。

「ナンパ」の例からあきらかだ。

目と目が合って、その瞬間に交感がうまれ、話がはじまる。

どこで「意志」が生まれ、どちらが「主体」で、だれが「行為」をなしたのか。

これを能動/受動という枠組みで把握することはできない。

いや、ナンパの例だけではない。

実際のところ、ぼくらのあらゆる営みは、能動/受動では理解できないのではないか?

ここで中動態という態がかつて存在したことを思い出してみたらどうか。

能動/受動の対立ではなく、能動/中動の対立という枠組みによってのみ見えてくる世界があるのではないか。

では、能動/中動モデルで世界を見たとき、その世界で「意志」とは何か、「責任」とは何か、そして「自由」と何か。

本書は、ギリシア語・ラテン語等の態の分析を軸に、ハイデガーアレントの議論を参照し、「中動態の世界」を記述していく。

スピノザの「自由」について語る第8章なんかたまらない。

最終章、メルヴィル「ビリー・バッド」の読解も最高だった。この章を最初に読んでおくとよいかもしれない。

本書の最後の箇所をメモしておく。

  自由へ近づくために

 完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態の世界を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。

 われわれはそのことになかなか気がつけない。自分がいまどれほど自由でどれほど強制されているかを理解することも難しい。またわれわれが集団で生きていくために絶対に必要とする法なるものも、中動態の世界を前提としていない。

 われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。 293-294頁