手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「男はつらいよ お帰り 寅さん」

男はつらいよ お帰り 寅さん」2019 監督:山田洋次

↑松竹の公式サイト

↑予告。

↑舞台挨拶

見終わって、とても悲しい気持ちだ。

映画がつまらないとか、駄作であるとか、そういうことではない。

令和の日本に、寅さんの居場所はないということを痛感して、うちひしがれてゐるのだ。

「寅さん的」世界における感情のうごきを受容するような風土が、いまの日本には、もう完全にないということが、はっきりとわかった。

どういうことかというと、本作で描かれる「寅さん的」な演出は、いまの感覚でみると、ことごとくすべってゐるのだ。

ぼくは1986年生まれで、二十歳のころに寅さんを知って、大好きになり、49作全部見た。寅さん記念館にも行った。ある映画祭で、寅さんが劇場で上映されるのを一度だけ見たことがあり、そのときに山田洋次監督も来てゐたから、すごくうれしかった。

つまり、ぼくはけっこう熱心なファンである。「寅さん的」世界を楽しむOSはぼくの中にしっかりビルトインされてゐるのだ。

「寅さん的」世界というのは、なんというか、昭和的人情といえばやぼったいけれど、まあ、みんな欠点があって、感情の動きがおおげさで、しょっちゅうケンカして、けれど、まあまあお互い様ぢゃないかといって仲直りする。要するに「熱い」感じ。相手のふところにとりあえず自分の熱をほうりなげるというのかしら。悪気がなくて、真率なら、粗暴で野蛮でも、愛するよ、というあれ。

昭和が終わって、30年の平成間、人間関係のありかたは完全に反対方向へすすんで、いまでは相手に干渉しない、干渉されることは迷惑である、他者と深い関係をもつことがいやである、あるいはこわい、したがって基本的に無関心でゐる。そういう風儀となった。それが基本的なマナーであり、そこから深い関係をつくることに四苦八苦するというのが当世のコミュニケーションだ。

つまり、コミュニケーションの根本、初期の作法が、完全に転倒してしまったのだ。

昭和「まづ、ふところに入る」→平成→令和「とりあえず、無関心・不干渉」 

という感じかしら。

令和的な感覚で本作を見ると、いろんな演出がすごくすべってるのだ。

お馴染みの居間でのやりとり、若者の描写、編集者と作家との関係、セクハラっぽい会話・・・ああなんということだ、寅さん的演出が、いまの感覚にはここまでイタイタしく感じられるとは。

ぼくはこの映画をけなしてゐるのではない。繰り返すけれど、ぼくは寅さんの大ファンなんだ。ただ、この転倒と断然を突き付けられてショックなんだ。

寅さん的演出がすべってゐる、というのは、実は渥美清が老けこんできて、寅さんが恋愛できなくなってきたころ、昭和がおわって、平成期にはいったあたりの寅さんシリーズでも、実はそういう感じはあったのだ。

バブルの体験というのは日本人の感情のうごきや対人マナーを根本から変えてしまったようだ。貧しさ/生産ベースから享楽/消費ベースにかわったということだろう。

しかし、シリーズは最後まで寅さん的世界を貫いた。昭和的人情を貫いた。それはたしかにスベってる感じはちょっとあったのだけれど、それが見られるものであったのは、やはり渥美清という強烈な存在がそこにあったからだろう。本作を見て、そういうことを感じた。

本作に渥美清の寅さんは登場するけれど、みんなの記憶として、回想として登場するだけで、やはり昔の日本の昔の寅さんなのだ。

リアルの渥美清がゐない現代に、寅さん的演出をやるとここまで断然があらわになる。それがものすごく衝撃だった。ああ、参った。これは、ある年代より下の世代にはまったく理解不能だと思う。

この断絶がものすごく悲しい。

山田洋次監督は本作についてつぎのようなコメントをよせてゐる。

1969年8月27日、『男はつらいよ』第1作が劇場公開された。おりしもぼくたちの国は高度成長期の途上にあり、活気があって威勢のいい充実した気分がこの国を覆っていたように思う。そんな時代を背景にぼくたちの寅さんは勢いよく誕生し、作者のぼくが当惑するほどの人気であれよあれよと作り続けてついに48作を数え、渥美清さんの死によりシリーズ49作の特別篇をもっていったん終りを告げた。そして今、先行き不透明で重く停滞した気分のこの国に生きるぼくたちは、もう一度あの寅さんに会いたい、あの野放図な発想の軽やかさ、はた迷惑を顧みぬ自由奔放な行動を想起して元気になりたい、寅さんの台詞にあるように「生まれて来てよかったと思うことがそのうちあるさ」と切実に願って第50作を製作することを決意した。このシリーズ製作に関わった全ての出演者、なつかしいスタッフに想いを馳せつつ、松竹全社の協力を得て作り上げたこの作品と共に、50年目を祝いたい。 

88歳の山田洋次は「日本はなぜこんなことになっちまったのか」と思ってゐるのだ。たとえば宮崎駿なんかもおなじように思ってるだろう。

「おれたちの描いてきた気持ちのいい人間たちはどこへいってしまったのか」

「おれたちの仕事はなんだったのか、この日本に、なにかいいものを残しえたのだろうか」

そういう痛苦だ。

「あの野放図な発想の軽やかさ、はた迷惑を顧みぬ自由奔放な行動を想起して元気になりたい」

山田洋次はいう。しかし令和の日本人は寅さんの野放図さや奔放さを見て、元気になれないと思う。

「なんて無神経で迷惑なやつだ」

それで終わってしまうのではないだろうか。

寅さんの居場所は今の日本にはない。

寅さんは、たしかに、うっとうしい、迷惑な男だ。だから帰ってきては面倒をおこし、おいちゃんやおばちゃんから「あんたなんか帰ってこなけりゃよかったのに!」といわれ、さくらから「おにいちゃんのバカ!」なんていわれて頭に血がのぼって出ていくことになる。

しかし、さくらは寅さんをおいかけていって、いうのである。

「お兄ちゃん、ごめんなさい。あたしたちがわるかったわ。また帰ってきてね」

「さくら、ごめんよ、こんな兄ちゃんで」

これですよ(涙)。

寅さんシリーズは、「マドンナとの恋」がメインの映画ではないのである。兄妹愛のおはなしなの。

寅さん「さくら!」

さくら「お兄ちゃん!」

このやりとりが、一つの映画で、帰ってきたときと、喧嘩したときと、見送るときと、三回くらいあるのだけれど、これがいいの(涙)。

さくらだけは、いつもお兄ちゃんをゆるす。

その人間の一番どうしようもない欠点がいとおしくてしかたない。愛ですね。

寅さんはヤクザである。はみだしもので、アウトローで、居場所のない、風のようにとおりすぎてゆくフーテンである。そういう寅さんの人間的魅力や社会的機能というのを、寅さん的世界の人々は理解して、受け入れてゐた。また必要としてゐた。

寅さんの人間的魅力というのは、ほんとうの意味で教養人であるということだ。これは何かというと、人のこころがわかる、ということなんだ。悲しみにくれてゐる人、苦しい境遇にゐる人のこころがわかる。寅さん自身がそうだから。

寅さんは、いつも苦しくって、辛い境遇にゐる。しかし、自分の流儀をつらぬいて、タフに愉快に生きてゐる男だ。

そういう男だからこそ、苦しいときに、人は寅さんに触れて救われるのだ。

マドンナとの恋というのは、だいたいこういう文脈において設定されてゐる。つまり、マドンナがたいへん苦しい境遇にあるところで、寅さんに出会う。そして助けてもらって、

「寅ちゃんてほんとにおもしろのね」

「あたし、寅ちゃんとゐると、なんだかとっても元気がでてきちゃうわ」

とか言っちゃう。

さっそく寅さん惚れる。マドンナちょっとその気になる。寅さん逃げる(!)。

「おれなんかが、そんな、バカいっちゃあいけませんよ」

これですよ(涙)。

教養人である寅さんはまた、トリックスターという社会的機能を担ってゐる。

日本人はどこでもムラをつくってその内部でべったりとよりかかりあって生きてゐる。しかしそのムラというのは多様性に欠けるので、よどみができたり、閉塞したりしがちだ。そこへ野蛮なる教養人たる寅さんがやってくる。

よどみや閉塞を抱えたムラにとって寅さんというのはすごくありがたい存在で、まったく空気を読まずに、野性的な教養でもってズバリと核心をつくことを言う。そうして壊れた人間関係を修復したり、心屈した人をはげましたりする。

旅先でも浅草でも、必ず、そういう場面が設定されてゐる。で、だいたい、それをちょっとやりすぎて、軽いモンチャクをおこして、スーとまた別のところへいってしまう。あるいはムラになじんでくると、むずがゆくなって、惜しまれながら去る。居心地がよくなると居心地がわるくなる、というのが寅さんだ。

 「どうかとめないでおくんなさい、ここはおれみたいなヤクザものがゐるところぢゃあないんです」

これですよ(涙)。

寅さんの野性的な教養とか、トリックスター的な機能というのは、いまの日本人はおよそ評価しないと思う。いまの感覚で見るとほんとに頭のおかしなオッサンという感じだ。

繰り返しになるが、今回、「男はつらいよ お帰り 寅さん」を見て、とても悲しい気持ちになったのは、令和のコミュニケーションのルール、感情の動きを前提として見たときに、寅さん的な演出がことごとくスベってゐるように感じたからだった。

渥美清という身体がないために、説得力を欠いてゐるというのが大きな理由としてある。しかしぼく自身、寅さん的世界を楽しむチャネルに切り替えることができなくなってゐた。かなりのファンであるという自負があっただけに、それがショックだった。

昭和「まづ、ふところに入る」→平成→令和「とりあえず、無関心・不干渉」

わづか30年程度で、コミュニケーションの作法が正反対にいってしまうというのは、やはりちょっとおかしいのではないだろうか?

ひどい断絶だぞ。

「日本はなぜこんなことになっちまったのか」

山田洋次監督にかぎらない、多くの日本人はそう思ってゐるだろう。ぼくはその最大の理由として、「歴史性の欠如」ということをあげたいと思う。

はやい話が、山田洋次がまた寅さんを撮るということに対して、「いつまで昭和の郷愁にひたってゐるつもりか」とか「昔はよかった的ノスタルジーってやあね」というような言い捨てがある。そういうこと。

過去をすぐに切り捨ててしまって、よきものを過去から未来へ受け渡すという健全な世代間のつながりが生まれない。

維新時に大きな断絶があり、敗戦でまた大きな断絶があり、バブルでもそれがあったのではないだろうか。

そういうことばかりやってるから、「こんなこと」になっちまったのではないだろうか。

ぼくはそのように考えるので、本作をスベってゐるといいながらも、全面的に肯定し、全力で愛するのである。

男はつらいよ」シリーズは、森川信がおいちゃん役を演じてゐるときのものが一番よいと思います。