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「イスラーム 生と死と聖戦」中田考

イスラーム 生と死と聖戦」2015 集英社新書

  従うことがイスラームですが、何に従っているのかというと、現代社会では、いまの人間はイスラーム国の国民であろうがあるまいが、すべて国家に従っている。戦争にしろ、刑罰にしろ、直接的に物理的な力を最終的に担うのは国家です。その力に従っている。そうでないところは何に従っているかというと、お金に従っているわけです。すごく単純なことですが、お金をくれる人間に従う。

 国家権力とお金、これが現代の偶像神であり、こうした偶像崇拝を打破して、本来のダール・アル=イスラームを回復する。そのためのカリフ制再興であり、それはひいては国家と企業の連合体が推進するグローバル化に対抗する、もうひとつのグローバルな連帯の形成にも役立つ、というのが私の主張です。 202-203頁

中田先生の著した新書を集中的に読んでゐるのだが、これも、すごく勉強になる。

やはり、対談よりも単著のほうが内容が濃くていいなあ。

イスラーム法」は神の法である。

神の法だから無謬である。

何をすべきか、何が正しいのか、それがきちんと決まってゐる。

日本で生きてゐて苦しいのは、結局「正しいこと」の基準がないということだ。

究極的にはないですよ、恐ろしいことに。

「権力とお金」をもってゐるほうが強くて、「勝てば官軍」で勝ったほうが正しいということになる。

ぼくは日本が好きだけれど、「勝てば官軍」という非倫理的な心性は嫌いだ。

もう、まったく、耐えられない。

日本では、とにかくあらゆることが、なんでも、どうでもいい。

「和」であればいい。どういう「和」なのかは不問である。これがしんどい。

イスラーム法は「神の法」、神から授けられた掟であり人間がつくったものではない。

なぜ神の法なのかというと、ムハンマド預言者と信じ、ムハンマドが授かったクルアーンを神の言葉と信じるからなので、これは要するに「信仰」としか言えず、「信仰」という大前提を共有できなければどうにもならない。

クルアーンが神の言葉であると「証明」することはできない。

そういう話ぢゃない。

「信仰」はイスラーム教徒にとっては「(アッラーに)服従する」ということで、まったくクルアーンが神の言葉であることは自明なのだが、「(アッラーに)服従」してゐない人からすれば、神の言葉でもなんでもなく、早い話がブッダの言葉とか孔子の言葉と同じようなもんだという話になる。

しかし、クルアーンブッダ孔子の言葉と同じようなものではないのである。これは優劣ではなく次元が違う、位相が違うものなんだ。

30過ぎて、ようやく啓示宗教がなんなのかということを知りました。

以下、本書からメモをば。

 人間だけを理性的存在として特別視する発想はイスラームには無縁です。森羅万象はすべて霊的存在であり、それぞれの言葉でアッラーを讃えています。

 イスラームにおいて人間をほかの存在者と分けるのは、アッラーの命令に従うか背くかを選ぶ意志の存在です。人間以外の森羅万象が選択の余地なく必然的にアッラーを讃えているのに対し、人間だけがアッラーに背くことができます。罪を犯すことができる倫理的存在であることが人間の本質なのです。

 人間は、罪を犯し、罰を引き受ける可能性と引き換えに、自らの意志でアッラーの命令に従い、自らの意志でアッラーの下僕となる可能性を選び取ることもできます。そこにこそ人間の尊厳と栄光があるのです。

                           71-72頁

 基本的にはキリスト教ユダヤ教では、人間だけが神の似姿です。だからキリスト教ユダヤ教にとっては、「人間と神プラスそれ以外の自然」という図式になります。

 ところがイスラームではそうではなくて、神は超越しているので、この世界のどこにもいません。ですから、神以外のほかのものはすべて、基本的に全部同じ立場なのです。そこが決定的に西欧の宗教観と違うところです。西欧の宗教観では人間と神プラスそれ以外の自然という図式ですが、イスラームでは「神とそれ以外」という図式で、人間と自然は基本的に一緒なのです。

 しかし、それでは、なぜ人間だけが違うのかというと、西欧では人間を理性的動物と考えるのが主流ですが、イスラームでは理性とか意識とかによるのではなく、責任の有無によります。だからイスラームの人間観では、あくまでも倫理的な存在が人間なわけです。

 イスラームの世界観では、自然も全部霊を持っていて、それぞれが言葉、コミュニケーションツールを持っているという点では人間と変わらない。けれども、自然は罪を犯さない。すべて神の意のままである。ところが人間だけが自由意志を持っていて、神の意に反し、悪を犯しうる。悪を犯しうる存在であるということにおいて、人間は宇宙の中で独自の存在です。

                          78-79頁

 さて、イスラームでは、人が死んだ場合、その肉体は死にますが霊魂にはしばらくは意識があるというのが通説です。肉体はもう死んでいるので、肉体しか見えない私たちには死者に意識があるのかどうかわかりませんが、霊魂は肉体の死後も肉体からすぐに離れずに意識を持っているというのがイスラームの考え方です。

 死者がお墓に入ると、お墓の中の審判というものがあります。お墓の中で神が遣わした天使に、何を信じたか、お前の主は誰か、お前の預言者は誰か、などを審問されます。その期間中、信仰者はお墓の中でいい暮らしができるし、不信仰者は天使に責められる。信仰があやふやだった人はおちおち死んでいられないわけです。

 そうしたことがあった後、死者の魂はいつの間にか眠ってしまうんです。いつから眠るとははっきり書いていないのですが、「ハディース」によると、死者はお墓の中の審判のあとは眠っていて最後の審判のときによみがえるというのが大枠です。つまり、死者の魂はまさに永い眠りについているのであって、魂が消滅したり、天使とか地獄とかどこか別のところに行ってしまうのではなく、あくまでこの世界にいると考えるわけです。

                           92-93頁

 これまでもイスラームの特色として、法学的に思考すること、倫理的存在という人間観に立つことなどを挙げてきました。イスラームは信仰によって結びついた共同体(ウンマ)を前提にして、私たち人間がどう生きるべきか、どのような社会を営むべきかを考えます。はっきり言えば、これは政治です。イスラームとは政治にほかなりません。宗教としてのイスラームと、政治としてのイスラームは別のものではないのです。

                            118頁 

 イスラームの神は、神学的に言うと非常に明快で、まず世界の創造主であるということ、つまり存在するものの根拠である。それと同時に人間に規範を示し、人間がそれに従うべき主であること、つまり善悪の根拠でもある。これに尽きます。

(中略)

 「存在の領域」と「善悪(当為)の領域」がある。イスラームの場合はその区別を明確に定式化します。そういう意味ではイスラームは二元論的です。その両者の根拠となるのが神である。

(中略)

 このように、神によって人間の意志にゆだねられた領域がある。それを望むか望まないか、何を望むか望まないかを神が人間にお任せになった領域がある。それは人間自身の行為に関することで、それが善悪の領域である。この善悪の領域が成り立つためには、人間に自由が必要です。人間の自由は善悪を説明するためにあるわけですので、自由がなければ善悪は成り立たないのです。だから、倫理は自由とセットになっている。

                         123ー125頁

  私自身の暫定的な神学的結論は、我ながら信じがたい結論なんですけれども、まさに無数の世界が、すべて実在するというものです。

 私が寝ている世界、そもそも、私がいない世界とか、まさに世界がはじまってから終わりまでの無数の世界がアッラーの知識のなかにあるわけです。その中に、子どものころからのいろいろな無数の私がいるわけです。もう死んでしまっている私もいるかもしれません。さまざまな私が無数にあって、その中にいまの私もいるわけです。すべては実は同格に存在している。けれども、この、いま私たちが生きているこの世界、選択肢だけが、私一人だけではなくて世界中の人にとって、唯一そこで人間が意識を持っている、というのがいまの私の暫定的な結論です。

                             136頁

 国王だろうが、大統領だろうが、自然法に反したことをしてはいけないと、はっきり言えるのがイスラームのよいところです。自然法の支配とは、裏返せば人間による支配の否定です。これはいまの言葉で言えば、アナーキズム(無支配)です。

 西欧のアナーキズムは本質的にアナーキー(無秩序)なので、まとまらないのですけれども、イスラームだけが世界中、どこでも人間による支配を受けずに生きていけるという、そういうシステムです。

                             193頁