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「心臓を貫かれて」マイケル・ギルモア

「心臓を貫かれて 」マイケル・ギルモア 文春文庫 1999 翻訳:村上春樹

悲惨な事件が起ったときぼくたちはなぜこんなことになったのかと問う。いったいどこで間違えたのか、どの時点でこうなることが確定したのか、どこまで遡りなにをどうやり直せば防ぐことができたのか。

すなわち回帰不能点(Point of no return)はどこにあったのかと。

今年の7月、山上徹也が安倍晋三を射殺した。どこが Point of no return だったのだろう。安倍が旧統一教のイベントにビデオメッセージを送ったときだろうか。山上の母が自己破産したときだろうか。もっと視野を広くとり想像力を働かせれば、アメリカが岸信介を復活させ岸が統一教会と手を組んだときにはもうこの事件の芽はまかれてゐたとも考えられる。

多くの人が「日本はもう終わってる」と考えてゐる。ほんとうにそうだとしたら、いつどの時点が Point of no return だったのか。未来は決定されてゐて、ぼくたちはどうすることもできないのだろうか。

1976年、当時35歳のゲイリー・ギルモアはふたりの若者を射殺し、死刑宣告を受けた。当時のアメリカでは10年近く死刑が行われてゐなかったが、彼は判決通りの死刑を要求し、刑務所内で繰り返し自殺をはかる。ある種の「魅力」をもってゐた彼はメディアを席捲し、ニューズウィーク誌の表紙をかざるまでの存在になった。多くのひとは彼を憎んだが、同時に信奉者をも生んだ。

最終的にゲイリーの「願い」は聞き入れられ、五人の射手により、弾丸に「心臓を貫かれて」世を去った。

本書はゲイリー・ギルモアの弟マイケル・ギルモアが、兄はなぜ殺人者とならねばならなかったを問い、家族にかけられた呪いの起源を追ったものである。読みはじめると止まらない面白い本だが、面白いとは絶対に言えない種類の本である。あまりに重く、深刻だ。

読んでゐて絶望的な気持ちになってくる。兄弟のうち誰がゲイリーになってもおかしくなかったし、両親が殺人者になっても不思議ではなかった。すべてのエピソードに、癒しがたい傷と、傷から生まれる憎悪と、憎悪に克とうとする愛を感じる。しかし、

「ある種の精神の傷は、一定のポイントを越えてしまえば、人間にとって治癒不能なものになる。それはもはや傷として完結するしかないのだ」ということを、僕は理解できたような気がする。 村上春樹による「あとがき」

である。もちろん人を殺すべきではないが、本書を読んでギルモア家の歴史を知り、ゲイリーの人生を想うとき、ああなるほかなかったのだと感じてしまう。

マイケルは20世紀の初めにユタ州に生まれた母ベッシーの物語から語り始める。そして母の生育環境を理解するために、19世紀にモルモン教ユタ州において勢力を拡大する歴史にまで遡る。はじめからかなりしんどい。まさに暴力と血の歴史だ。

ようやくゲイリー・ギルモアが誕生するのが上巻の179頁である。

 ここでちょっと口上を述べさせていただく。たった今重要なことが起きた。つまりこの本の中心人物である殺人者がここに誕生したのである。今の段階ではまだつぶらな青い瞳の、あどけない顔をした赤ん坊である。そのときから三十六年と少しを経て、彼は少なくとも二人の人間を殺害し、アメリカでもっとも有名な殺人犯として死刑を待つ身になる。彼が有名になった理由は、自分が死刑に処せらることを要求した、アメリカでは唯一人の殺人犯だったからだ。

(・・・)

この数年間というもの、僕は二つの疑問を頭の中でいやというほどひねくりまわしていた。「いつ、どのようにして、殺人というものは始まるのだろう?」あるいは別の言葉に置き換えるとこうなる。「すべてが誤った方向に流れ始める瞬間を特定することはできるのだろうか?」すべての違いを作り出す瞬間を、あるいはその時期を取り出すことはできるのだろうか? もしできるのなら、それはゲイリーの人生そのものに含まれていたものなのだろうか? あるいはそれは、ゲイリーの人生の外にあったものなのだろうか? たとえば彼の父親の過去の隠された暗黒の中に。 179ー180頁

山上徹也の刑は未決でありまだ裁判も始まってゐない、死刑になったとしても銃殺にはならないが、彼と安倍晋三の物語を軸にした「心臓を貫かれて」を誰かが書かねばならないだろう。

ぼくのような人間がブログで書く程度のレベルでも語られねばならないし、すぐれた作家が全精力をかたむけて決定的な一冊を書かねばならないと思う。

安倍銃殺事件は戦後日本の歴史と現在の状況をあまりに見事に象徴してゐるから。

日本と朝鮮の関係、日本とアメリカの関係、冷戦構造下における日韓の反共保守の結託、戦争記憶の風化による歴史意識の消滅と歴史修正主義の勃興、バブル崩壊以後に登場した取り残された世代=ロストジェネレーションの問題、失われていく共同体とそれを埋め合わせるかたちで根を拡げる新興宗教。日本についぞ根付かなかったデモクラシーの精神。

これらが複雑にからみあった先に、安倍晋三が山上徹也に射殺されるという事件が起きた。狂人が突発的になした犯罪ではない。

美しい国、日本。」「日本を取り戻す。」と言ってゐた安倍、「愛国者」達のアイドルであった安倍が「反日」「カルト」の旧統一教会ときわめて深い関係にあった。これほどの事件があっても自民党は旧統一教会と手を切るつもりはないようだ。

山上徹也の母はその旧統一会によって財産を取られて自己破産してゐる。その前史は夫の自殺や長男の病死など不幸の連続である。

「何故かこの社会は最も愛される必要のある脱落者は最も愛されないようにできている」

山上徹也のツイートはぼくたちの殺伐たる社会とからっぽの政治を鋭く射貫いてゐる。いったいなぜ安倍は撃たれねばならず、山上は撃たねばならなかったか。この社会は狂ってゐる。ぼくたちはどこで間違ったのだろう。

これを書くにはとほうもない知識と文学的想像力と筆力が必要だと思う。

そのような作家が日本にゐることを願ってゐる。