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「意識と本質 精神的東洋を索めて」井筒俊彦

意識と本質 精神的東洋を索めて井筒俊彦 岩波文庫 1991 原著は1983

むづかしかったけれどなんとか読了。 

・意識と本質ーー東洋哲学の共時的構造化のために

・本質直感ーーイスラーム哲学断章

・禅における言語的意味の問題

・対話と非対話ーー禅問答についての一考察

の四つの論文を収録。

全体417頁のうち一番目の「意識と本質ーー東洋哲学の共時的構造化のために」が317頁まであるので、分量としては圧倒的に大きい。

「後記」から本書の主題がよくわかる箇所を引用する。

 ヘレニズムとヘブライズムという二本の柱を立てれば、大ざっぱながら、一応は、一つの有機的統一体の自己展開として全体を見通すことができる西洋哲学とは違って、与えられたままの東洋哲学には全体的統一もなければ、有機的構造性もない。部分的、断片的にならばいざしらず、全体的に西洋哲学と並置できるような纏まりは、そこにはない。東洋において我々が第一次的に見出す哲学は、具体的には、複雑に錯綜しつつ並存する複数の伝統哲学である。

 東洋思想ーーその根は深く、歴史は長く、それの地域的拡がりは大きい。様々な民族の様々な思想、あるいは思想可能体、が入り組み入り乱れて、そこにある。西暦紀元前はるかに遡る長い歴史。わずか数世紀の短い歴史。現代にまで生命を保って活動し続けているもの。既に死滅してしまったもの。このような状態にある多くの思想潮流を、「東洋哲学」の名に値する有機的統一体にまで纏め上げ、されにそれを、世界的現在状況のなかで、過去志向的でなく未来志向的に、哲学的思惟の創造的原点となり得るような形に展開させるためには、そこに何らかの、西洋哲学の場合には必要のない、人為的、理論的操作を加えることが必要になってくる。

 そのような理論的、知的操作の、少なくとも一つの可能な形態として、私は共時的構造化ということを考えてみた。この操作は、ごく簡単に言えば、東洋の主要な哲学的諸伝統を、現在の時点で、一つの理念的平面に移し、空間的に配置しなおすことから始まる。つまり、東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし、それらを範型論的(パラデイグマテイク)に組み変えることによって、それらすべてを構造的に包みこむ一つの思想的連関的空間を、人為的に創り出そうとするのだ。

 こうして出来上がる思想空間は、当然、多極的重層的構造をもつだろう。そして、この多極的重層的構造体を逆に分析することによって、我々はその内部から、幾つかの基本的思想パターンを取り出してくることができるだろう。それは、東洋人の哲学的思惟を深層的に規制する根源的なパターンであるはずだ。 410-411頁

これをつづめると、井筒の構想はすなわち、

1、 東洋の主要な哲学的諸伝統を、時間軸からはずし、一つの理念的平面に移し、空間的に配置しなおして、それらすべてを構造的に包みこむ一つの思想的連関的空間を創造する。

2、創造した多極的重層的構造体を逆に分析することによって東洋人の哲学的思惟を深層的に規制する根源的な基本的思想パターンを抽出する。

ということになる。

「東洋の主要な哲学的諸伝統」として取り上げられるのは、本居宣長松尾芭蕉空海老子荘子朱子リルケマラルメ、スフラワルディー、イブン・アラビー、ユダヤ教神秘主義など。

生きた場所も時間もみな異なる彼らの思想を時間軸からはずし、一つの理念的平面に移し「東洋人の根源的な基本的思想パターン」を抽出する。

壮大な試みで、その志の高さと気迫に感動する。

その感動があるから、むづかしいなあ、むづかしいなあ、と思いながらも読了することができた。

「根源的な基本的思想パターン」とは、事物事象の本質を把握する意識、その仕方のパターンのことで、タイトルの「意識と本質」というのはそこからきてゐる。

 経験界で出合うあらゆる事物、あらゆる事象について、その「本質」を捉えようとする、ほとんと本能的とでもいっていいような内的性向が人間、誰にでもある。これを本質追及とか本質探求とかいうと、ことごとしくなって、何か特別なことでもあるかのように響くけれど、考えてみれば、われわれの日常的意識の働きそのものが、実は大抵の場合、様々な事物事象の「本質」認知の上に成り立っているのだ。日常的意識、すなわち感覚、知覚、意志、欲望、思惟などからなるわれわれの表層意識の構造自体の中に、それの最も基礎的な部分としてそれは組み込まれている。

 意識とは本来的に「・・・・・の意識」だというが、この意識本来の志向性なるものは、意識が脱自的に向っていく「・・・・・・」(X)の「本質」をなんらかの形で把捉していなければ現成しない。たとえその「本質」把捉が、どれほど漠然とした、取りとめのない、いわば気分的な了解のようなものであるにすぎないにしても、である。意識を「・・・・・の意識」として成立させる基底としての原初的存在分節の意味論的構造がそのものがそういうふうに出来ているのだ。

 Xを「花」と呼ぶ、あるいは「花」という語をそれに適用する。それができるためには、何はともあれ、Xがなんであるかということ、すなわちXの「本質」が捉えられていなければならない。Xを花という語で指示し、Yを石という語で指示して、XとYを言語的に、つまり意識現象として、区別することができるためには、初次的に、少なくとも素朴な形で、花と石それぞれの「本質」が了解されていなければならない。そうでなければ、花はあくまで花、石はどこまでも石、というふうに同一律的にXとYとを同定することはできない。 8-9頁

花を、花以外のなにものでもない、花として認識する。

石を、石以外のなにものでもない、石として認識する。

そのためにはそれぞれ、花の本質、石の本質を把握してゐることが前提となる。

すなわち、何か(X)を認識するとは、

【わたし→→→意識→→→→X】

のようにわたしの意識がXに向けて滑り出していくことが必要であるが、その滑り出しが可能となるためには、滑り出しの方向を規定する原初的・第一次的な「本質」把握が先行してゐなくてはならない。

「意識と本質」ではこのような意味での「本質」把握のパターンを上記したような哲学者・詩人の思想から抽出していく。

これくらい本格的な哲学書を読むことはぼくには稀な体験であるので、それなりに骨だったけれど、めちゃめちゃ面白く読めた。

井筒俊彦が哲学者であり詩人であるということがよくわかった。芭蕉とかリルケとかマラルメとか、詩人を論じる箇所の熱量がすごくてこちらも興奮してくる。

それと、ああ、井筒さん、本居宣長はあんまり好きぢゃないかなあ、とか、荘子は相当好きだよねとか、行間から対象への思い入れの度合いが垣間見えてくるのが楽しかった。

神秘哲学」もいつか挑戦したいと思う。

以下、ちょびっとだけノート。

「意識と本質 Ⅱ」での宣長論・芭蕉論が面白い。

和歌の言語、和歌のコトバはいかに世界を分節してゐるか。

 あまりに明確な輪郭線で区切られた「本質」的事物の、ぎっしり隙間なく充満するこういうマンダラ的存在風景に飽き足らぬ詩人たちは、王朝文化の雅びの生活感情的基底であった「ながめ暮らす心」を、普遍的「本質」 消去の手段として、一つの特殊な詩的意識のあり方にまで次第に昇華させた。平安期における「眺め」とは、折口信夫によれば、春の長雨期の男女間のもの忌につながる淡い性欲的気分でのもの思いだという。たしかに例の『伊勢物語』の「起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめ暮らしつ」や、『古今集小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらに我身よにふるながませしまに」などの「眺め」には「性的にぼんやりしている」気分という意味が揺曳していることはいなめない。だが、『新古今』的幽玄追及の雰囲気のさなかで完全に展開しきった形においては、「眺め」の意識とは、むしろ事物の「本質」的規定性を朦朧化して、そこの現成する茫漠たる情緒空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度ではなかったろうか。 54頁

ここめっちゃいい。

和歌の世界認識をこういう風に哲学の言葉で論じることができるんだな。感激。

王朝和歌、読みたいと思うわ。

「意識と本質 Ⅷ」のイマージュについての論述は圧巻。

すごい筆力。

 底の知れない沼のように、人間の意識は不気味なものだ。それは奇怪なものたちの棲息する世界。その深みに、一体、どんなものがひそみかくれているのか、本当は誰も知らない。そこから突然どんなものが立ち現れてくるか、誰にも予測できない。

 人間のこの内的深淵に棲む怪物たちは、時としてーー大抵は思いもかけない時にーー妖しい心象(イマージュ)を放出する。だが、怪物たちは、ふだんは表に姿を現さない。ということは、彼らの働く場所が、もともと、表層意識ではないということだ。だから人間の、あるいは自分の、表層意識面だけ見ている人にとっては、それらの怪物は存在しないにひとしい。怪物たちの跳梁しない表層意識こそ、人は正常な心と呼ぶ。平凡な常識的人間の平凡な意識は、まさに平穏無事。もし怪物たちが自由勝手に表層意識に現れてきて、その意識面を満たし支配するに至れば、世人はこれを狂人と呼ぶ。つまり、そのような表層意識のあり方は、表層意識としては、アブノーマルな事態なのである。そしてこのことは同時に、彼ら、内的怪物たち、の本来的な場所が、表層意識ではなくて、深層意識であることを示唆する。深層意識領域という本来あるべき場所にあって、あるべき形で働く限り、どんな醜悪妖異なものにも、それぞれの役割があって、それらがそこにあるということが、時には幽玄な絵画ともなり、感動的な詩歌を生みもする。 180-181頁

このあたりは、ぼくの愛好する舞踊と関連付けて論じることができそうだ。

例えば☟のマリー・ヴィグマンの「魔女の踊り」なんか内的深淵に棲む怪物を妖しいイマージュとして放出してゐる感じがするなあ。