「イスラーム哲学の原像」井筒俊彦 岩波新書 1980
イスラームの根源的思惟形態であるイブン・アラビー系の「存在一性論」について論じる。「序」によれば、存在一性論とは、
『観想によって開けてくる意識の形而上学的次元において、存在を究極的一者として捉えた上で、経験的世界のあらゆる存在者を一者の自己限定として確立する立場』
である。
イスラーム世界において、もともとまったく違った問題をまったく違った態度で追及してきた神秘主義(スーフィズム)と哲学とが十三世紀に融合し、神秘主義的な実在体験と、哲学的な思惟の根源的とが結びついた。
スーフィーは観想の修行を行い「人間的自我の消滅」を目指す。そして「人間的自我の消滅」はそのまま「神的われ」の実現である。
人間の自我の意識から神的意識、神の意識まで、純人間的なものから純神的なものへ、闇から光へ、この両極のあいだに広がる異常な精神的緊張のうちにスーフィーの魂はしだいに変貌し、変質していきます。そしてこの魂の変貌、変質、メタモルフォシスそのものがスーフィズムなのであります。 74頁
「魂の変貌」を経験したスーフィー的主体が、「神的われ」の絶対境地から、人間理性の次元まで降りてきて哲学的に思惟したらどうなるか。その体験を哲学の言語で語るとき「神秘哲学」がうまれる。
イブン・アラビーは全存在界の究極的始点、絶対の無でありかつ絶対の有である究極の源を「絶対的一者」という。この究極的存在の自己展開を図にしたものが☟である。
三角形の頂点が「絶対的一者=アハド」である。アハドの下に広がる形而上的領域が存在のアハディーヤ。このアハディーヤは形而上的領域であるから、いまだ何の区別もない、一物の影もない、自分も他人もない世界だ。
絶対的一者はその形而上的領域を現象的存在の次元として顕現させたいという根源的傾向を有している。一者そのものに内在するこの本源的な存在的衝迫をイブン・アラビーは「(神の)慈愛の息吹き」とよぶ。
「(神の)慈愛の息吹き」が発現するところをワーヒドという。イブン・アラビーの神秘哲学ではこのワーヒドが「アッラー」である。
イブン・アラビーの理解する形においては、ワーヒドは依然として一者でありますけれども、それはアハドのような絶対超越的一者ではなくて、つまりまったくの白紙ではなくて、外的にはまだ依然として白紙ですけれども、内的にはもう白紙ではないような一者、言い換えますと、内部構造としてすべての数を可能的に含んだ一者であります、つまり多者を統一する統合的な一者であります。そしてイブン・アラビーの哲学体験においてはこの統合的一者=ワーヒドが、まさに伝統的、宗教的言葉で申しますと「アッラー」にあたるのであります。 127頁
アッラーとして顕現した「多者を統一する統合的な一者」の領域がアーヒディーヤの下位にあるワーヒディーヤである。ワーヒディーヤは「神の自意識の領域」の名が示すように、いまだ経験的・感覚的次元における存在ではない。これは経験的世界の存在の元型であり鋳型である。この鋳型を通ることによって存在リアリティーが具体的事物として顕現し、経験的世界(カスラ)が成立する。
この究極的な絶対無から経験的世界の成立までの過程は時間的推移をともなって実現されるのではなく「永遠的事態」、無時間的な全存在界の一挙展開である。これは存在リアリティーそのものの構造に深く根ざした内在的、本源的な力動性によってなされる。
(・・・)絶対無を形而上学的極限とする絶対一者(アハディーヤ)を中心点として、そこからあらゆる方向に発出し、一段また一段と次第に外に向かって階層的に存在界を形成しながら、ついに外周の感覚界まできれわれわれの普通の経験的世界になる、形象的構造としては、まさに密教のマンダラに比すべき存在マンダラでありまして、中心点から外周の円まで、一切が一時に展開してそこにある。それが存在一性論の説く存在顕現です。すべてが一挙に展開するのですから無時間です。時間的過程ではありません。
ですが、また、無時間とはいってもーー密教マンダラの構造的内動性にもはっきり現れていますようにーー完全に出来上がってしまって、凝結して動かないというのではありません。逆にこのマンダラの内的構造は不断に生成してやまぬ存在の生命力の充実です。存在マンダラを内的緊張に充ちた流動体たらしめるこの存在の生命力こそ、イブン・アラビーが「慈愛の息吹き」という言葉であらわそうとしたものであります。すなわち中心点から外周までの発出、そして外周から中心点への帰還が一瞬も停止することなく、しかも瞬間的に繰り返されている。普段に動いているのに、しかもマンダラ全体は微動だにしていない。静と動の同時現成、これが全存在界の無時間的次元での一挙開顕なのです。 208-209頁
これは最高ですね。ぼくはこの神秘哲学がとても好きだ。
「神の慈愛の息吹き」によって一挙開顕する世界とはなんて美しいイメージだろう。
たまらんなあ、という感じ。