「中村天風の生きる手本」2007
中村天風の談話を作家の宇野千代が筆記したもの。三笠書房の「知的生きかた文庫」から2007年に出たものだが、元の「天風先生座談」はいつ初版だろうか。文庫には記載がない。
中村天風が1968年没(92歳)、宇野千代が1996年没(98歳)だから、少なくとも20年以上は前ということになる。
宇野千代は「おはん」と「色ざんげ」は知ってゐるが読んだことがない。ぼくは文学が好きだから、読んでないけど知ってる本というのがたくさんあるんだ。
宇野によれば、その「おはん」を書いたあとに一行も書けなくなったらしい。わたしはもう書けない、詩想が枯渇する年齢に達したのだ、という牢固とした抜き難い考えがあったという。
そんななか、中村天風を知り「人間は何事も自分の考えたとおりになる。自分の自分に与えた暗示の通りになる。」そう言われた。
ある日、ほんの数行書けた。一枚書けた。ひょっとしたらまた書けるのではないか。そう思ったとたんに書けるようになったという。
この、思いがけない、天にも上るような啓示は何だろう。そうだ。失恋すると思うから、失恋するのだ。世の中の凡てが、この方程式の通りになると、ある日、私は確信した。そのときから、私は蘇生したように書き始めた。
不思議なことがあるものだ。
天風先生は神通力でも持ってゐるのではないか。
宇野の書き起こした天風先生のことばを読んでゐると、たしかに神通力とでも呼べそうな、人々の生命力を強烈に鼓舞するエネルギーが感じられる。
面白いのはインドでの修業時代の話だ。
師とあおぐヒマラヤの聖者にこんなことを言われたという。
お前は生きることばかり考えているけれども、生きている方面の命を、どうすれば正しく生かしていけるか、それを考えなければ駄目じゃないか。生存に対する生命のバイブレーションというものが、絶対に必要だということを、お前は考えていない。お前はただ、生きよう、生きよう、という努力をしているだけだ。それじゃ駄目だ。ものの半分しか見ていない。片っぽうの大事な部分をおろそかにしている。その考え方で組み立てられている生き方には、大きな錯誤があるぞ。いままで、お前が多くの医学書を読み、しかもアメリカで基礎医学を学びながら、お前のいま持っている病い一つ治せずにいるのは、そこに大きな欠陥があったからだということに気がつかないのか。
「生存に対する生命のバイブレーションというものが、絶対に必要だ」
あ。と思った。
この言葉、今の自分のために用意されたものだと錯覚するほどに、ピンときた。
ぼくも、生きよう、生きよう、とウンウン努力してゐるだけで、生きてゐる方面の命を、どすれば正しく生かしていけるか、それをおろさかにしてゐるんぢゃないか!
凄いことばを聞いた。
「生存に対する生命のバイブレーション」!!
天風先生によれば、健康になり、自分の命をいきいきと生かすためには、生命を支える宇宙エネルギーを、受け入れる受け入れ態勢が、完全に用意されてゐる必要がある。そのためにどうしたらいいか。
生存に対する精神生命の 、自然法則に順応するという状態は、終始一貫、いかなる場合があろうとも、その精神の生存状態を積極的であらしめねばならないのであります。そして、この積極的というのはどういうことかというと、どんな場合にも、尊く強く正しく清く生きることなんであります。
「尊く強く正しく清く生きる」とは口で言うのは簡単だが、実行するのはたいへん難しい。なぜできないかというと、潜在意識の観念要素がとりかえられてゐないからだ。観念要素の更改をしてゐないからだ。
そして、自分の人生を生きる刹那刹那に、自分の観念を積極的にしようと心がけないからだ。
「尊く強く正しく清く生きる」ためには、この潜在意識の観念要素をとりかえなくてはいけない。
実在意識の奥にもう一つ、潜在意識というものがある。俗に心の倉庫と言います。
この中で思ったり考えたりするすべての材料が、観念要素と名づけられてはいっている。何かものを考えようとすると、すぐこの観念要素が、ひょいひょいと飛び出して来ては、実在意識となる。そして、思い方考え方に、一連のアイディアを組み立てるのであります。
この侵すべからざる大きな事実を、静かに考えてみると、人間の思い方考え方が、尊くなるのも卑しくなるのも、強くなるのも弱くなるのも、結局はこの観念要素に左右されているということになる。
(中略)
真理というものは事情に同情してくれず、また弁護もしてくれない。「お前の場合は別だから、まァいいわ、心配しろ。しようがないわな。そのかわり、体に障らないようにしておけ。」なんて言ってくれない。事情はどうあろうとも、われわれの思い方考え方がすこしでも消極的である場合は、直ちに、われわれの生きる肉体生命のうえに、驚くべき、よくない変化が現れて来る。これをたいていの人は知りませんよ。
消極的感情とはどんなものか。それは怒ること、悲観すること、理由なく恐れること、憎むこと、恨むこと、嫉妬すること。
潜在意識の中にこれら消極的感情が残ってゐると、それが材料となって、実在意識として思い方考え方に反映されてしまう。それがいきいきとした生命活動をさまたげる。
よい観念要素を潜在意識にいれるためには、まづ心の奥、潜在意識の大掃除をしなくてはいけない、それが観念要素の更改である。
また肉体生活のほうは、これはまたどんな場合にも、つねに「訓練的に積極化する」必要がある。
「お前のような人間が、とにかくこの土地に来てよかったな。来なければ何もわからないで、お前はただ、そのまま、病いと組打ちしてからに、この世を終るだけだ。考えろ。人間なにしにこの世へ生れて来たか。」
師から問われた天風は必死で考えた。そうして分かってきたことがある。
造物主はなぜ人間をつくったか。何か人間以外には出来ないことを人間をさせるために、他の生物にはもちあわないものを与えたに違いない。
人間が万物の霊長としてつくられた、その目的は、エレベーション(高める)という造物主の目的に順応するためだ。
人の生に病いだとか、不運だとかいうものが出てくるのは、造物主が、お前の生き方は間違ってゐるぞということを悟らせるために、本性に立ち返って、エレベーションに順応するという気持ちのでるまで、慈悲の心でそうしてゐるんだ。
師は言った。
「病いは病いだ。苦しみは苦しみだ。病いにかかったといってからに、心まで病ませる必要はなかろう。肉体に病いがあろうと、心まで病ませる必要がどこにあるのか。そういうときは、心の方が、健康なり運命なりをよき状態につくり直して行かなければならない、その原動力としての存在なのだから、それに捲き込まれないようにしなければならないじゃないか。お前は捲き込まれどおしだ。無理でもいいから、言って見ろ。俺がお前に、ハウ・ドゥユウ・ドューと聞いたら、どんなことがあっても、アイ・アム・クワイトウェルと言え。頭が痛いとはどういうわけだ。俺はお前に、お前の気分をきいているんだ。体のことは一ぺんもない。いかに汝はあるのか、というのは、お前の気分をきいているんだ。お前の体は、今日丈夫かい、ときいたことが一ぺんでもあるか。お前は病人じゃないか。病人であるお前に、お前、丈夫かい、ときくかい。」
これは傑作だ。
ぼくもマネするよ。確かにそうだ。体が悪いのと気分がいいのとは両立するんだ。体が悪くたって、気分はよくしてゐることはできるぢゃないか。なんかそう言われると、あれ、なんでこんなことに気がつかなかったのかと思うが、まったくぼくは、虚を衝かれた。
いや、ぼくはほんとに体が弱くて、しょっちゅう風邪をひいて、毎日頭が痛いと言ってる虚弱な男だ。それで、消極的な心に支配されることがとても多い。けれど、気分はよくしようと、思うべきなんだな。
オイラも毎日、聞かれてもないのに「I am quite wll.」と言うことにしよう。これを口ぐせにしよう。
「お前の気分はどうだい、ときくのに、いつでもお前は、やれ頭が痛いの、けつが痛いの、すべったの転んだの、一ぺんでも、体は悪くても私の気分は爽やかでござんす、と言ったことはねェじゃねェか。明日の朝から、そう言え。言わなかったら、俺はお前と口利かないぞ。」
さて、では、観念要素の更改のためにはどうしたらいいのか。
天風先生は、夜寝るときの心構えを説く。
夜、布団の中に入ったら、昼間の出来事と心を関係つけさせない努力をすること。寝ることと考えることをいっしょにしてはいけない。どんな辛いこと、悲しいこと、腹の立つことがあっても、それは明日の朝、起きてから考えることにする。
寝床は考え事とはまったく無縁の場所でなくてはならない。
一日じゅう、昼の間に消耗したところのエネルギーを、一夜の睡眠、夢ゆたけく眠ったときに、また蘇る、盛り返る力をうけとるところだ。寝ている間、あなあ方の命を守ってくれている造物主は、ただ守ってくれているばかりでなく、疲れた体に、蘇る力を与えてくれている。
また、夜の世界でだけは、よいことでも悪いことでも、すべてが、潜在意識のほうに差別なく入り込んでしまう。だから、嘘でもいいからいいことを考えなくてはいけない。「俺は優れた人間だ、俺は思いやりのある人間だ、俺は腹の立たない人間だ、俺は憎めない人間だ、俺は焼きもちを焼かない人間だ。こう思えばいい」
もう一つ、言葉に気をつけること。
絶対に消極的な意思表示をする言葉を口に出さないようにする。決して、参った、助けてくれ、などと言わないこと。
「とにもかくにも、自分の生命は自分が守らなければならない。そのためにも、いやしくも消極的な、自分の命をスポイルするような表現をしないこと、同時に、それを実行に移す際には、不平不満を絶対に言うなかれ。」
本当に金言がたくさんの本だった。
こういう自己啓発系の本は、普段は敬遠してまったく読まないぼくだけれど、これはよかった。
肉体については「訓練的に積極化」する。
眠るときはよいことを考える。
消極的な言葉を口にしない。
Thank you,I am quite well.