手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「アクラム・カーン版 ジゼル」

「アクラム・カーン版 ジゼル」2018

振付・演出:アクラム・カーン 出演:タマラ・ラホ(ジゼル) ジェームズ・ストリーター(アルブレヒト) ジェフリー・シリオ(ヒラリオン) スティナ・クァジバー(ミルタ)

 2016年、イングリッシュ・ナショナル・バレエがコンテポラリーダンサー・振付家のアクラム・カーンを招聘して発表した舞台「ジゼル」の映画版。

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 アクラム・カーンはバングラディシュ系移民の2世で、幼少期からインドの古典舞踊カタックを学び、長じてコンテポラリーに進んだ人だ。

 ぼくはカタックを習ってゐるから、いろいろ動画を見てゐるうちに彼の存在を知った。天才だと思う。彼が現役のうちになんとかヨーロッパに出向いて、彼のダンスを見たいと思ってゐる。

 彼が「ジゼル」をやると聞いてとてもビックリした。「え、アクラム・カーンのダンスとバレエって融合できるの!?」と。

 見て仰天した。とんでもない傑作だった。 

 一緒に見に行った知人は12歳までバレエを本格的にやってゐた人で、その人は鑑賞後にこう言った。

 「これほどバレエを壊してゐるのに、間違いなくバレエになってゐて驚いた」

 バレエに明るくないぼくは逆に、「ここまでアクラム節が炸裂してゐるとは思わなかった」と応じた。

 元の作品の設定である貴族と平民との階級差を、現代の移民問題に絡めて、富めるものと貧しきものの分断として再解釈したものだ。みたいなことを言われてゐるが、ぼくの感覚で言えば、それはそう言われて見ればそういう解釈ができるというだけで、作品自体はかなり抽象的な表現の連続で、かなり開かれた解釈を許容する作品だと思う。

 セットや衣装で具体的な「職業」とか「時代」とか「場所」とかを示すということはしてゐない。舞台には巨大な「壁」があるだけで、ただ乗り越えられない「分断」の存在を象徴してゐるだけだ。つまりもの凄く「コンテンポラリー」だ。

 アクラム・カーンは「ジゼル」から物語の核を抽出し、それを自身のスタイルに流し込んだ。そうしてそのスタイルをバレエダンサーの肉体に移植した。結果として「間違いなくバレエ」であり且つ「アクラム節が炸裂」した作品ができあがった。何という力業だろう。

 二幕冒頭のウィリのダンスなど圧巻。ミルタ役のスティナ・クァジバーさんの鬼気せまる表現はもの凄い迫力だった。

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 それからジゼル役のタマラ・ラホさんは何と美しいだろう。

 終盤、ジゼルとアルブレヒトとミルタの3人が舞台に残り、冥界と現世のはざま、生と死のあいだで絡み合うシーンは荘厳な美しさだった。

 ぼく、泣いちゃった。

 それにしても、イギリスという国は凄いと思う。アクラム・カーンは2012年ロンドン五輪の開会式でパフォーマンスをしてゐた。そして今回、バレエというヨーロッパの誇る伝統に移民2世のインド舞踊出身のダンサーを招きいれて、こんなぶっとんだ作品を生み出してしまうのだ。

 日本における「非日本人」への冷たさを思うとき、彼我の社会の成熟度の差に愕然とする。

 アクラム・カーンの才能に驚愕し、ダンサー達の表現力に感激し、ヨーロッパ文化の厚みに打ちのめされる。そんな舞踊体験だった。

 ああ、本当に素晴らしかった。

 また見たい。